10-7
処理部隊が態勢を立て直して、部屋へ雪崩れ込んできた。
だが遅かった。サエが、俺とナギを風で守りながら、退路を切り開いた。狭い調整室から、廊下へ。廊下から、切り裂かれた防火扉の隙間へ。非常階段を一気に下へ。
ナギは、もう無差別には、切らなかった。サエの後ろについて、必要な分だけ、処理部隊の武器を、いなした。二体の鎌鼬が、並んで走ると、白い廊下の空気が、二重に、裂けた。同じ形式で作られた二つの風が、今度は、ぶつかり合うのではなく、同じ方向へ、揃って吹いた。
それは、奇妙な光景だった。ほんの少し前まで、殺し合っていた二体が、今は、同じ廊下を、同じ風で、駆けている。
片方は、命令から外れたばかりの個体。片方は、とうに命令を切って、名前を選び直した個体。先に逃げた者が、後から逃げる者の、先導をしていた。この街の、はぐれ者の、いちばん古い助け合いの形だった。誰も教えないから、先に逃げた者が、教える。
俺は、その後ろを、震える手で、拳銃を構えて、走った。撃ったのは、二発だけ。ドローンのカメラを、二つ。それ以上は、撃たなかった。今夜の主役は、俺では、なかった。俺は、名前を切る役と、背中を見ている役を、務めただけだ。
一階の、通用口へ続く廊下。その角を曲がったところで、俺たちは、足を止めた。
白い光の下に、女が、一人、立っていた。
処理部隊では、なかった。武装していない。防護具もつけていない。糊のきいた白いコートに、白い手袋。片手に、薄い端末を持っている。整った顔立ちだが、印象に残らない。覚えやすい顔ではなく、忘れやすい顔だった。たぶん、そういう顔を、選んでいる。
たった今、二体の鎌鼬が、この廊下を風で薙ぎながら、駆け抜けてきたところだ。切られた金属の粉が、まだ宙に舞っている。その中で、その女の髪だけが、一本も、乱れていなかった。
サエの袖の下で、赤い駆動線が、灯った。
「やめておきなさい」
女は、言った。スピーカー越しに聞いたのと、同じ声だった。怒鳴らない。急がない。
「白瀬透子です。……お会いするのは、初めてですね」
彼女は、逃げ道を、塞いでいなかった。廊下の、端に寄って立っている。通れる。通れるように、立っている。それが、いちばん、気味が悪かった。
「どいてくれるのか」
「どくも何も、止めていません」
白瀬は、端末に、何かを、書き込んだ。
「今夜の処理は、失敗しました。それは、記録します。ただ、失敗も、書式のうちです。……あなたがたを、ここで力ずくで止めることは、私の職掌ではありません。私は、現場の人間では、ないので」
サエの風が、静かに張り詰めた。この距離なら、切れる。俺にも、それが、わかった。白瀬にも、わかっているはずだった。
だが、彼女は、端末から、目も上げなかった。
「切りますか」
こともなげに、彼女は言った。
「かまいませんよ。ただ、あまり、意味はありません。私を切っても、書式は、残ります。名称整理の手順書も、照合の権限も、私が考えたものでは、ありませんから。……私がいなくなれば、別の誰かが、同じ欄に、判を押すだけです」
サエの指が一度、開いて、閉じた。
赤い駆動線が、ゆっくりと消えた。
「……気に入らない」
サエが、低く言った。
「でしょうね」
白瀬は、初めて顔を上げた。そして、俺を、見た。
「久我さん。今夜のことは、覚えておきます。あなたは、私の名称照合の線を、切った。個体を、一つ、命令系統から、逃がした。……手際が、よすぎます。あなた、以前、この手の仕事を、していましたね。名前を、切る仕事を」
俺は、答えなかった。
「切る手つきは、消す手つきと、よく似ています。あなたは今夜、逃がすために切った、とお思いでしょう。でも、切られた名前は、宙に浮く。宙に浮いた名前は、いつか、私のところへ、落ちてきます。……あなたが逃がしたつもりのものは、たいてい、順番待ちの列に、並び直すだけです」
俺は、それにも答えなかった。答えられなかった、というほうが、正しい。
俺たちは、彼女の横を、通り過ぎた。
すれ違うとき、白い手袋の指先が、端末の上を一度だけ滑った。振り返らなかった。振り返らなくても、わかった。追手の手配なら、もっと慌ただしい音がする。あれは、書類の、続きだった。
外の空気は、冷たかった。背中で、自動扉が、音もなく閉まる。
俺は、足を止めなかった。だが、あの白い光の下で、髪の一本も乱さずに立っていた女のことを、たぶん俺は、長く忘れない。
俺の名前。都市の帳簿の上で、とうに死んで、それでも稼働し続けている、俺の半分。白瀬は、それを、まだ、完全には掴んでいない。だが、いつか、名称照合の線は、俺のところにも、伸びてくる。今夜、俺はその線を一本切った。切ったぶんだけ、向こうは俺を覚える。
それでも俺は、切ったことを、後悔しなかった。




