10-6
サエは、戦いながら俺に言った。
「ミナト。あの端末。名称照合の線。切れる?」
「切れる。だが、切れば――」
「切って」
俺は、割られていない、古い保守端末に、指を戻した。名称照合の線。白瀬が、遠隔で、ナギを、そしてサエを、旧名で呼ぶための、経路。それを、断てば、白瀬の号令は、ナギに、届かなくなる。
だが、それは、ナギの旧名を、命令系統から切り離すということでもある。──白瀬のやろうとしている「名称整理」と、手つきは、そう変わらない。名前を、切る。
「切れば、ナギの旧名は、宙に浮く。命令系統から、外れる。だが、それは、あいつを、どこにも登録のない、逃走個体にするってことだ。お前と、同じ。誰にも、守られない」
「知ってる」
サエは、ナギの刃を、いなしながら、言った。
「私と、同じにする。命令されない代わりに、誰にも、守られない。……でも、それが、いちばんましな不自由よ。飼われるより、はぐれるほうが、まだ、いい。少なくとも、はぐれ者は、自分で、次の名前を、選べる」
俺は、迷わなかった。迷う時間も、なかった。
俺は、死んだ半分の権限で――いや、それは、使わなかった。今夜は、生きている俺の、震える手で、古い保守手順を、辿った。
企業の犬だった頃、俺が、いくつもの名前を、消してきた、その手順で。認証を迂回。名称系統へ入る。照合線を、特定する。……どこを切れば、命令だけが外れて、記録の痕跡は残るか。頭より先に、手が、知っていた。
嫌になるほど、慣れた手つきだった。かつては、消すために使った手順だ。今夜は、逃がすために使っている。
「サエ。あと、五秒、保たせろ」
「三秒にして」
「無理だ」
「じゃあ、追加料金」
俺は、線を、辿った。震える指の下で、名称照合の経路が、ほどけていく。
だが、単純では、なかった。名称照合の線は、一本ではない。命令を送る線と、記録を保つ線が、より合わさって、一本に見えているだけだった。命令の線だけを、切る。記録の線は、残す。切りすぎれば、命令だけでなく、名前ごと消える。白瀬の名称整理と、同じことに、なる。
俺は、指先で二本をより分けた。消すときは、両方、切った。今夜は、片方だけだ。命令のほうを、選んで、断つ。
背後で、処理部隊の足音が、近づく。サエが、ナギをいなしながら、風で、その足音を、押し返す。彼女の息が、上がっていた。二体分の風を、一人で捌くのは、ただでは、済まない。
名称照合の線が、切れた。
*
その瞬間、ナギの、赤い駆動線から、強すぎる明滅が、消えた。
号令が、届かなくなったのだ。彼女の身体を、外から動かしていた、命令の糸が、切れた。ナギは、剥き出しの刃を、振り上げた姿勢のまま、止まった。それから、ゆっくりと腕を、下ろした。
初めて、彼女の目に、焦点が、合った。
『……あれ』
ナギが、言った。戸惑ったような、声だった。
『声が、しない。頭の中で、ずっと、鳴ってた声が。……消えた。ずっと、あったのに。生まれたときから、ずっと』
彼女は、自分の頭を、片手で、押さえた。声が消えた場所を、確かめるように。生まれたときから、ずっとそこにあった号令。次に何をすべきかを、教えてくれた声。それが消えて、彼女は、初めて静けさの中に、放り出された。自由、というより、心細さに、近い顔だった。命令のない静けさは、はぐれ者の、最初の、こわさだった。
「命令の声よ」
サエが言った。風を、収めながら。額の、掠り傷の血を、拭いもせずに。
「切った。もう、あんたを、動かせない。……代わりに、もう、誰も、あんたを守らない。あんたは、今夜から、はぐれ者よ。私と、同じ」
ナギは、自分の手を、見た。剥き出しだった刃が、少しずつ鞘に、収まっていくように、赤い駆動線が、静かになっていく。彼女は、まだ、若い個体だった。まだ、鞘のない刃だった。だが、初めて自分の意志で、腕を下ろした個体でも、あった。
『……名前は』
ナギが、訊いた。
『私の、名前は、どうなった』
「消えてない」
サエは、言った。
「宙に浮いてる。どこの帳簿にも、載ってない。命令系統からも、外れた。……でも、消えてない。私が、覚えてる。あんたが、いた。ナギって名前を、私が、勝手につけて、覚えてる。だから、あんたは、いなかったことには、ならない」
『勝手に、つけた』
「気に入らなかったら、自分で、選び直せばいい」
サエは、少しだけ口の端を、動かした。
「名前は、いくらでも選び直せる。切ったり、貼ったりできる。それが、命令名との違いよ。命令名は、向こうが決める。自分の名前は、自分が決める。……面倒でしょ。迷うし、疲れる。でも、その面倒くささが、あんたが道具じゃない、証拠なの」




