10-5
『では、伊吹サエさん』
白瀬が、サエの、選んだ名前を、呼んだ。
『いえ。それは、あなたが、後から選んだ名前でしたね。私は、あなたの、本当の名前で、呼びます。名称照合の権限で。……戻ってきなさい』
そして、白瀬は、それを口にした。
俺には、それが、聞こえなかった。正確には、聞こえたはずなのに、頭に、入ってこなかった。番号のような、記号のような、名前ではない何か。呼ぶための言葉ではなく、動かすための言葉。それが、部屋の空気を、震わせた。
サエの身体が、跳ねた。
膝が、折れかけた。右手が、意志と無関係に、上がりかけた。まるで、号令を受けた兵士のように、身体が、次の命令を、待つ姿勢を、取ろうとした。
彼女の意志ではなかった。刻まれた反応が、頭より先に、身体を、動かしていた。彼女の顔が、歪む。従いたくないのに、身体が、従おうとする。その矛盾が、彼女の内側で、軋んでいた。
彼女の指が、一本ずつ、開いていく。武器を構える手の、開き方だった。誰に教わったわけでもない。身体に刻まれた、開き方。次に、足が半歩引かれた。突撃の、前傾。頭は、嫌がっている。全力で。だが、首から下が、別の生き物のように、命令の続きを、待っていた。──呼ばれた者は、動く。それが、この名前の、唯一の意味だった。
「サエ!」
俺は、彼女の肩を、掴んだ。
ナギも、同じだった。旧名の響きに、ナギの身体も、跳ねた。赤い駆動線が、痛いほど強く灯り、彼女は、剥き出しの刃を、スピーカーの方――白瀬の声の方へ、向けかけた。命令に、従おうとしていた。号令ひとつで、二体が、寸分たがわず、同じ姿勢を取ろうとしていた。
『いい子です』
白瀬の声が、言った。
『それが、あなたの名前です。身体が、覚えている。頭が、忘れても、身体は、忘れない。……ね? だから、戻ってきなさい。楽になります。自分で、名前を選ぶのは、疲れるでしょう。呼ばれるままで、いればいい。考えなくて、いい。迷わなくて、いい。誰かが、あなたの代わりに、あなたが誰であるかを、決めてくれる。……それは、とても、楽なことですよ』
サエの膝が、床に、つきかけた。
俺は、彼女の肩を掴んだまま、必死に言葉を探した。制度の言葉ではなく、制度の外の言葉を。白瀬に通じる言葉ではなく、サエに通じる言葉を。
「サエ。お前の名前は」
俺は、言った。
「伊吹サエだ」
サエの灰色の目が、俺を見た。焦点が、合っていなかった。旧名の号令と、俺の声の間で、彼女は、揺れていた。
「それは、誰かに与えられた名前じゃない。お前が、自分で、選んだ名前だ。……甘いものが嫌いで、追加料金が口癖で、精神的苦痛費がやたら高い、あの、伊吹サエだ」
『くだらない』
白瀬の声が、初めて少しだけ、温度を変えた。
『そんな、後付けの名前に、意味は――』
「意味なら、ある」
俺は、白瀬の声を、遮った。
「あんたの帳簿には、載らない意味だ。だが、俺は、知ってる。この女が、どんな顔で、追加料金って言うか。倒れた相手を、長く見ないこと。雨も降ってないのに、雨上がりの匂いがすること。狭いところが、駄目なこと。……それは、番号でも、命令名でも、書けない。伊吹サエって名前の、中身だ。あんたが、いくら本当の名前で呼んでも、その中身までは、呼び戻せない」
揺れていた目の焦点が、ゆっくりと、俺の上で合った。
彼女の、床につきかけた膝が、止まった。
「……うるさい」
サエが、言った。掠れた声だった。だが、それは、彼女の声だった。命令を待つ兵士の声ではなく、乾いた皮肉を言う、いつもの、あの声だった。
「あんたに、私の名前を、説明されると、寒気がする」
「悪かったな」
「追加料金」
その一言で、俺は、彼女が、戻ってきたのを、知った。
サエは、ゆっくりと立ち上がった。膝の震えが止まっていく。右手首を握っていた左手が、ゆっくりと下りた。それから、袖の下の赤い駆動線を、一度だけ強く灯した。彼女自身の意志で。命令ではなく、彼女が、選んで。企業に刻まれた、いちばん嫌いな赤を、今夜だけは、自分の意志で、灯した。
『残念です』
白瀬の声が、言った。温度は、もう元の、穏やかなものに、戻っていた。
『あなたは、自分で、守れる機会を、手放した。……では、仕方ありません。処理を、続けます。そこの戦闘個体も、あなたも、まとめて。整理は、感情では、動きません。順番どおりに、進むだけです』
部屋の外で、複数の足音がした。企業の、処理部隊だ。囲んで、待っていた蓋が、開いた。
*
いちばんの問題は、ナギだった。
ナギは、まだ、旧名の号令の中に、いた。赤い駆動線が、不安定に明滅し、彼女は、剥き出しの刃を、めちゃくちゃに、振り回していた。命令に従おうとする身体と、従いたくない何かの間で、壊れかけていた。その刃は、もう狙いを持っていない。近づくものを、無差別に、切る。踏み込んできた処理部隊が、その刃に、二人、倒れた。
「サエ。あれを、止められるか」
「殺すなら、できる」
サエは、短く言った。
「殺さないなら」
「殺すな」
「わかってる」
サエは、ナギの前に、出た。
二体の鎌鼬が、狭い調整室で、対峙した。
ナギの、剥き出しの刃が、サエへ、振るわれる。サエは、それを、風で受けた。刃と刃が、空中で、ぶつかる。目に見えない刃どうしが、噛み合い、弾け、部屋の空気が、いくつも、裂けた。壁が、施術台が、細かく、断たれていく。切られた金属が、宙で、粉のように舞った。
狭い部屋は、鎌鼬には都合がいい。逃げ場のない空気が、そのまま刃になる。だが、それは、二体ともに、都合がよかった。ナギの刃も、逃げ場を失った空気を、無尽蔵に、刃に変える。二つの風が、部屋の中で、ぶつかり、渦を巻いた。
ナギが、壁を蹴った。
床を走らずに、壁を走る。狭い部屋では、そのほうが速い。天井の照明が、彼女の通った順に、断たれて落ちた。一つ、二つ、三つ。部屋が、暗くなり、明るくなり、また暗くなる。その明滅の中で、剥き出しの刃が、上から降ってきた。
サエは、避けなかった。
半歩だけ、内側へ入った。振り下ろされる腕の、内側へ。刃は、彼女の背後で空を裂いて、壁の配電盤を、縦に割った。火花が、散った。
同じ形式で作られた身体は、同じ間合いを、いちばん嫌う。……自分がいちばん入られたくない場所を、この女は、知っていた。
だが、サエは、ナギを、切らなかった。
受けて、逸らして、また受ける。ナギの刃を、殺さずにいなし続ける。号令に乱れたナギの攻撃は、がむしゃらで、速くて、強い。ただ、どこを切りたいのかが、ない。サエのほうには、それがあった。殺さない、という一点だけが。──サエは、最小限の風で、ナギの最大限の風を、受け流していく。
二つの風は、同じ癖を、持っていた。踏み込みの角度。刃の返し。息を止める間合い。サエには、ナギの次の一撃が、読めた。読めすぎた。自分の刃を、鏡で見ているのだから、当然だった。ナギがどこを切るかは、自分ならどこを切るか、と同じだった。
だが、鏡は、こちらの動きを、そのまま返す。サエに読めるなら、ナギにも、いずれ読める。同じ手の内を読み合うだけの、終わりのない戦いだ。長引けば、どちらかが消耗して、崩れる。
狭い部屋の空気が、切り刻まれ、渦を巻き、俺は、壁際に、身を伏せるしかなかった。飛び散る風の刃が、俺の頭上の配管を、断つ。冷却材の白い霧が、噴き出し、部屋が、いっそう、見えにくくなった。
それでも、ナギの刃が、一度サエの頬を、掠めた。細い血が、流れる。サエは、瞬きもしなかった。
「ナギ」
サエは、風を受けながら、言った。
「あんたの名前を、消させない」
『……名前、なんて』
「あんたの名前は、消えるべきじゃない。命令用の名前でも、番号でも、あんたが、いた証拠だ。……あいつらは、それを消して、あんたを、いなかったことにしようとしてる。私は、それが、いちばん、許せない」
『でも、名前があると、呼ばれる。呼ばれると、私、勝手に、動く』
「知ってる」
サエは、ナギの刃を、下から、逸らした。
「私も、そう。呼ばれると、勝手に動く。……だから、切ってきた。記録を、名前を。何度も。でも、切りすぎて、わかった。名前を全部切ったら、私が、いなかったことになる。あんたも。あんたの前の奴も。後の奴も。……名前は、憎い。でも、憎いまま、持っとくしかない。全部切ったら、私も、あんたも、いなかったことになる。だから、持っとくの」
一瞬、隙が、できた。
ナギの、号令に乱れた刃が、大きく空を切り、胴が、がら空きになった。サエの風なら、そこを、一息に、断てた。鎌鼬の刃は、そういう隙を、逃さないように、できている。頭より先に、身体が、その隙へ、刃を、送ろうとする。
サエは、その刃を、止めた。
止める、というのは、振るうより、ずっと難しい。振り上げた風を、途中で、殺す。刻まれた反射に、逆らう。彼女の腕が、一瞬震えた。旧名の号令に逆らったときと、同じ震え方だった。
だが、彼女は逆らった。ナギを、切らなかった。




