10-4
俺は、部屋の隅の割られていない端末を見つけた。
ナギが見落とした、古い規格の保守端末。企業が更新し忘れたやつだ。俺はそこに、震える指を伸ばした。
画面に処理の記録が流れた。
名称整理。対象、戦闘個体。処理番号――。稼働終了に伴い、命令名を含む全登録を、抹消。処理後、当該個体の物理的停止を、実施。
その承認欄に、白い札があった。妙に余白の多い、白い管理印。
名称整理/IX-NM。
喉の奥が、嫌な鳴り方をした。住居。記録。道路。労働。人格。地下。橋。保管。片づける対象が違うだけで、白さは、いつも同じだった。そして今度は、名前だった。呼ばれるための、名前そのものだった。整理の、いちばん根の部分に、名前はあった。
名前を消す。片づけの中でも、いちばん静かで、いちばん深い手だ。住居を消せば、住む場所を失う。記録を消せば、証明を失う。だが、名前を消せば、呼ぶ声を失う。──他人の口から、一つずつ、抜いていくのだ。
だが、その白い札の、さらに上に、別の書式が、あった。
IXの札とは、頭のコードが、違う。もっと上の、親署名のような書式。以前、一度だけ見た。河童の技師を死人にしたとき、サエの古い登録に、遠くから、白い手袋をした指が、触れたことがあった。あのとき、古い付喪神が言った。企業の署名に似ておるが、企業の責任欄ではない。役所の顔をしておるが、役所の印でもない、と。
白帳/名称照合。
その一行が、画面の中で、光っていた。
「サエ」
俺は、低く言った。
「これ、お前のときと、同じ照合だ。……同じ手が、あのときお前の名前に触れて、今、ナギの名前を、消そうとしてる」
サエは、答えなかった。だが、彼女の左手が、また右手首を握った。今は何もない手首を。昔そこに何かが嵌まっていた人間の、癖で。
*
そのとき、部屋の壁のスピーカーから、声が流れた。
女の声だった。落ち着いた、丁寧な、澄んだ声。怒鳴らない。急がない。まるで、上等な受付が、来客を迎えるような声だった。
『個体番号の稼働を、確認しました。周辺に、未登録の戦闘反応が、一体。……これは、思いがけない再会ですね』
ナギの身体が、びくりと、跳ねた。赤い駆動線が、一気に、強く灯る。彼女の刃が、また剥き出しになる。声に、反応していた。
「白瀬か」
俺が言うと、スピーカーの声は、少しだけ間を置いた。
『初めまして、久我ミナトさん。お会いするのは、初めてですね。声だけは、記録で、何度も聞いていました』
映像は、なかった。姿は、見せない。だが、その声だけで、部屋の空気が、変わった。清潔で、無機質で、隙のない、企業の色。俺が、以前、間宮という男に、水城という男に、感じたもの。それを、いちばん完成された形にしたものが、この声だった。損失は数えられても、人の生き死には数えたことがない、あの顔の、その、頂点。
『そちらに、二体、いますね。片方は、処理対象の戦闘個体。もう片方は――』
声が、サエのほうへ、向いた気がした。
『長いあいだ、行方の知れなかった、逃走個体。……ずっと、探していました。まさか、自分から、施設へ戻ってきてくれるとは』
『あなたを、責める気は、ありません』
白瀬の声は、あくまで、穏やかだった。
『あなたは、逃げた。当然です。命令されるのは、誰だって、嫌でしょう。名前を、番号で呼ばれるのも。施術台に、縛られるのも。……わかります。本当に、わかります』
「わかる、で始まる話は、たいてい、ろくでもない」
俺が言うと、白瀬は、少しだけ笑ったようだった。
『手厳しい。……でも、聞いてください。私は、あなたがたを、消したいわけでは、ないんです。むしろ、逆です。守りたい』
「守る」
『ええ』
白瀬の声が、サエに向かって、続いた。
『あなたは今、帳簿の上で、逃走個体です。登録は、切れている。名前も、自分で選んだ、非公式のもの。……そういう存在は、この街では、守れないんです。何かあっても、誰も、あなたを庇えない。病院にも、正規にはかかれない。事故に遭っても、記録に、残らない。あなたは、いつでも、いなかったことに、できてしまう。それは、危険です。あなた自身にとって』
「だから」
『登録し直せば、いいんです』
白瀬の声は、優しかった。優しすぎた。
『正規の登録に、戻す。そうすれば、あなたは、守れる対象になります。医療も、保護も、受けられる。二度と、追われずに済む。夜勤明けに、ゲートで弾かれることも、ない。……ただ、そのためには、一つだけ。あなたの、本当の名前を、帳簿に、戻す必要が、あります』
俺は、その意味を、理解した。
本当の名前。それは、旧名だ。命令用の、名前。呼ばれると、身体が、勝手に従いかける、あの名前。白瀬の言う「保護」とは、サエを、あの名前へ、戻すことだった。命令系統へ、返すことだった。守る、という言葉で、首輪を、もう一度、嵌めることだった。
「断る」
サエではなく、俺が、言った。
「あんたの守るは、飼うと、同じ意味だ」
『そう聞こえますか』
「そう聞こえるように、できてる」
白瀬は、少しだけ黙った。それから、静かに言った。
『……久我さん。あなたは、優しい。でも、優しさでは、存在は、守れません。祈りでも、守れない。守れるのは、正しい登録だけです。帳に載るものは、守れる。載らないものは、守れない。守れないものは、いつか、危険になる。危険なものは、整理するしか、ない。……そこの戦闘個体を、ご覧なさい。登録を、失いかけただけで、あんなに、暴れている。あれが、"守られない"ということの、姿です』
「あれを、あんなふうにしたのは、あんたたちだろう」
俺は、言った。
「名前を消そうとしたから、暴れてる。守られないから危険なんじゃない。あんたが、守らないと決めたから、危険にされてるんだ」
『順序の話ですね』
白瀬の声は、揺らがなかった。
『鶏が先か、卵が先か。……興味深い議論です。でも、現場は、議論を、待ってくれません。今、そこで、刃が、振るわれている。誰かが、止めなければ、ならない。私は、止める方法を、持っています。あなたは?』
俺は、答えられなかった。
この女は、怒鳴らない。差別語も使わない。論理は、途中まで、正しい。だから、憎むべき芯が、どこにもなかった。
「一つ、訊いていい」
サエが、初めて白瀬の声に、口を開いた。低く、平坦な声だった。
「あんた、私たちを、危険だって言った。守れないから、危険だ、って。……じゃあ、訊くけど。あんたに守られてる連中は、危険じゃないの。番号で、おとなしく、呼ばれるままでいる連中は。……私に言わせりゃ、そっちのほうが、よっぽど、危ない。命令一つで、どこへでも、刃を向けるんだから」
『それは、管理されている、ということです』
「管理されてる刃と、はぐれた刃。……どっちが、こわい。あんたは、はぐれたほうを、こわがってる。でも、ほんとにこわいのは、命令すれば、迷わず人を切る、管理されたほうよ。私は、それを、知ってる。……昔、私が、そうだったから」
白瀬は、少しのあいだ、黙った。反論しなかったのではない。反論する必要を、感じなかったのだ。彼女にとって、サエの言葉は、正しくても、間違っていても、どちらでも、処理の順番を、変えなかった。




