10-3
彼女は、廊下に一歩入ったところで、足を止めていた。
左手が、右の手首を、強く握っている。呼吸が、浅い。灰色の目が、廊下の奥の、透明な隔壁を、見ていた。その向こうに、施術台と、拘束具が、並んでいる。
「サエ」
「……ここ」
彼女の声が、掠れた。
「ここ、私が、作られたところだ」
サエは、それ以上、説明しなかった。だが、説明は要らなかった。
彼女の足が、廊下の一点で、止まったまま、動かない。そこには、番号の振られた小部屋が並んでいた。施術室。調整室。適合検査室。どれも、清潔で、静かで、感情を消した部屋だった。この女は、この部屋のどれかで、風を刃に変える骨格を、身体に刻まれた。命令に反応する神経を、植えつけられた。名前ではなく、番号で呼ばれた。
俺は、以前、別のビルの地下で、彼女が同じように固まったのを、見たことがある。透明な隔壁の向こうの、施術台。彼女は無意識に、左手で右手首を押さえた。そこには何もない。拘束具の跡も、傷もない。それでも、その押さえ方だけは、昔そこに何かが嵌まっていた人間のものだった。
あのとき、彼女は言った。ここ、狭い、と。天井は高く、廊下も広かった。狭いのは、場所ではなく、彼女の記憶のほうだった。
今夜は、もっと悪い。あのときは、"似た場所"だった。今夜は、"その場所"だった。
「戻るか」
俺は、言った。
「戻らない」
「無理はするな」
「無理してるのは、あんたも同じでしょ」
サエは、俺の手元の、震える指を、見た。
「おあいこ、って言ったでしょ。いつか。あんたが待機室のことを訊かれたくないように、私も、この部屋のことを、訊かれたくない。だから、お互い、訊かない。……でも、訊かないことと、逃げることは、違う」
彼女は、右手首を握っていた左手を、ゆっくりと下ろした。それから、廊下の奥へ、一歩、踏み出した。ためらいのない、一歩だった。ためらいがなさすぎる、いつもの、作り物の平気さだった。
作り物でも、足は、前へ出ていた。名を切られた者が、自分を作った部屋の中を、自分の足で歩いている。……たぶん、今夜のどの戦闘より、この一歩のほうが、きつい。
通り過ぎた小部屋の一つに、番号だけの、古い記録板が、残っていた。適合検査、と書かれている。その下に、いくつもの個体番号が、並んでいた。適合。不適合。不適合。廃棄。適合。……名前は、一つもない。番号と、判定だけ。
サエは、その板を、一瞬だけ見て、目を逸らした。彼女の番号も、たぶんその並びの、どこかに、あった。適合、の側に。だから、彼女は、廃棄されずに、逃げるまで、使われた。適合、というのは、この部屋では、幸運では、なかった。
廊下の奥から、金属の切れる音がした。
*
それは、五階の、いちばん奥の調整室にいた。
部屋は、半分、切り裂かれていた。壁も、施術台も、拘束具も、風の刃で、無数に断たれている。だが、破壊のための破壊ではなかった。何かを、探した跡だった。引き出しが、全部開けられ、記録端末が、全部、割られている。自分に関わる何かを、探して、見つけられずに、暴れた跡だった。
その中央に、女が、立っていた。
サエと、同じだった。
濡れてもいない黒のショートコート。色の薄い、灰色の目。夜の底のような白い肌。無駄を削ぎ落として研ぎ上げた、硬い細さ。
──だが、一つだけ、違った。サエの刃が、鞘に収まった刃物なら、これは、鞘のない、剥き出しの刃だった。袖の下で、赤い駆動線が、灯っている。サエのそれより、ずっと強く、ずっと不安定に。血管のような光が、明滅するたびに、部屋の空気が、薄く裂けた。
「ナギ」
サエが言った。
俺は、彼女を見た。
「名前を、知ってるのか」
「知らない。……でも、そう呼ぶことにする。名前のない奴を、番号で呼ぶのだけは、嫌だから」
女――ナギは、こちらを見た。灰色の目が、サエの上で、止まる。
その瞬間、ナギの動きが、変わった。剥き出しの刃から、少しだけ力が抜けた。彼女は、サエを見て、何かを、思い出そうとしていた。あるいは、見つけようとしていた。自分が、探していたものが、目の前に、立っているというように。
『……同じ』
ナギが、言った。声も、サエに似ていた。だが、もっと若く、もっと、掠れていた。
『あんた、私と、同じ』
「そうよ」
サエは、静かに言った。
「同じ工場で、同じように、作られた。同じ形式で、同じ名前で、呼ばれる。……たぶん、あんたのほうが、少し、あとに作られた」
『名前』
ナギの声が、震えた。赤い駆動線が、強く、灯る。
『私の、名前。あいつらが、消そうとしてる。名前を、消したら、私は、いなくなる。だから、探してた。でも、どこにも、ない。ここにも、ない。あんたは、知ってる? 私の、名前』
「知らない」
サエは、隠さなかった。
「でも、あんたが、いたことは、知ってる。今、目の前に、いる。……名前より、そっちのほうが、確かよ」
ナギは、その言葉を、理解できないようだった。名前がなければ、いないのと同じ。ずっと、そう教えられて、作られてきた個体だ。名前より、目の前の自分のほうが確かだ、という言葉は、彼女の中の、どの棚にも、収まらなかった。赤い駆動線が、また不安定に、明滅した。
そのとき、俺は、妙なことに気づいた。
サエが、わずかに、首を傾けた。考えるときの、この女の癖だ。
ナギも、同じ角度に、首を傾けていた。
真似たのではない。真似るには、速すぎた。同じ形式で作られた身体が、同じ入力に、同じ反応を返しただけだ。──だが、俺には、それが、幼い子どもが、目の前の大人の仕草を、そっくり写し取っているように、見えた。
この個体は、たぶん生まれてから一度も、自分と同じものを、見たことがない。




