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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第十話 鎌鼬は名前を選ぶ

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10-2

 事務所に戻ると、サエは、すでに立っていた。


 いつもソファに浅く座って、半分眠っているような女が、窓辺に立って、外を見ている。俺が入ってきても、振り返らない。濡れてもいないコートの襟を、片手で、握っていた。


「聞いたのか」


「匂いで」


 サエは、外を見たまま言った。


「昨夜から、街の風が、変だった。どこかで、私と同じ風の切り方をする奴が、いる。……ずっと、気になってた。寝ても、覚めても」


「同じ系統の、戦闘個体らしい」


「知ってる」


 サエは、そこで、ようやく振り返った。灰色の目に、いつもの半分眠そうな光はなかった。もっと、硬いものが、沈んでいた。


「私、行く」


「危ない。企業の作った個体だ。しかも、暴れてる。狐は、お前を連れていくなと言った」


「狐は、正しい」


 サエは、あっさりと認めた。


「でも、行く」


 二度目の「行く」は、短かった。だが、動かなかった。


 この女は、いつも、危ない場所を避ける。密閉された場所、清潔な場所、医療機器のある場所。近づかずに済むなら、近づかない。傷の側へは、決して自分から歩かない。──それが、今夜は、逆だった。自分から、いちばん危ない場所へ、歩いていこうとしている。


「なぜ、行く」


 俺が訊くと、サエは、少しのあいだ、黙った。


「あの子が、探してるもの。……わかるの」


 彼女は、窓の外へ、目を戻した。


「自分が、いた証拠。名前。番号じゃなくて、名前。……見つからないよ、あんなところには。私も、探した。若い頃。何もなかった。あるのは、処理番号と、命令用の名前だけ。名前を探して、見つからなくて、そのうち、探すのを、やめた。……あの子は、まだ、やめてない。だから、暴れてる」


「行って、どうする」


「わからない」


 サエは、正直に、言った。


「連れて帰れるとは、思ってない。助けられるとも、思ってない。……でも、探すのをやめた奴が、まだ探してる奴に、教えられることが、一つだけある。ないものを探すな、って。……それだけでも、言いに行く」


 俺は、呼ばない理由を、いくつも並べようとした。並べられなかった。いつだったか、地下の道へ行くとき、サエを呼ばない理由を、俺はいくつも並べた。並べすぎて、本当は呼びたかったのだと、あとで気づいた。今度は、逆の立場だった。彼女を止める理由を並べるほど、本当は、彼女が一人で行くのを、止めたいだけなのだと、わかった。


「一人で行かせない」


 俺が言うと、サエは、少しだけ俺を見た。


「足手まといよ」


「知ってる」


「震える手で、何ができる」


「震える手でも、お前の背中は、見ていられる」


 サエは、それには、何も返さなかった。ただ、コートの襟から、手を離した。それが、了解の合図だった。


     *


 西のラボの跡地は、企業がすでに封鎖していた。


 だが、封鎖の仕方が、妙だった。警察もいない。神祇庁(じんぎちょう)の車もない。あるのは、企業の、白い警備車両だけ。それも、遠巻きに、建物を囲んでいる。中へ突入する気配がない。まるで、中の何かが、外へ出ないよう、蓋をしているだけのような配置だった。


「捕まえる気が、ないな」


 俺が言うと、サエは、封鎖線の向こうの建物を、見上げた。


「囲って、待ってる。……あれは、狩りの囲みじゃない。処分の囲みよ。中で暴れてる個体が、勝手に力尽きるか、こっちの誰かが仕留めるのを、待ってる。どっちでも、向こうは損をしない」


 俺は、古い企業手順で、封鎖の隙間を探した。西のラボは、俺のいた部門と、同じ系列だ。裏口の位置も、警備の癖も、手が覚えている。植え込みの奥の、保守端子。外装パネルの三箇所を、指で押す。順番も、力の入れ方も、頭より先に、手が知っていた。カバーが、かちりと外れる。


 嫌になる。頭より先に、指が動く。忘れたい過去ほど、体の側に、律儀に居座る。


 サエが、俺の手元を見た。


「便利ね」


「便利じゃない。忘れたいだけだ」


 旧式のアクセスキーを差す。認証。だが、画面の隅に、見慣れない表示が、一瞬点いた。


 ――保守アクセス、記録。


 俺は、舌打ちした。以前なら、こういう裏口は、記録すら残らなかった。だがシステムは、少しずつ穴を塞いでいる。今の侵入は、どこかに、痕を残した。長くはいられない。


 自動扉が、音もなく開いた。


 中に入った瞬間、俺の足が、止まった。


 白い廊下だった。均一な、影のない光。物のない壁。消毒された、無機質な空気。青と桃と緑が、認証端末の上で、順に切り替わっている。


 鼻の奥に、覚えのある匂いが立ち上がる。ありもしない匂いだ。消毒液。乾かない何か。白い報告書。


 待機室だ。


 企業にいた頃、現場帰りに何度も通された、あの清潔な小部屋。そこで俺は報告書を書き、次の"回収対象"を受け取った。壁はこんなふうに白かった。空気はこんなふうに、無臭だった。天井から、感情を消した声が、次の指示を読み上げる。回収対象、何番。停止許可、発令済み。


 指が、震えた。俺は反射的に灰桜(はいざくら)をくわえ、フィルターを噛んだ。青い光。今はここだ。西のラボ。あの待機室じゃない。俺はもう、あそこにはいない。


 震えが、少しだけ引いた。


 だが、隣でサエのほうが、もっと悪かった。

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