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その刃は、敵ではなく、自分の名前を探して振るわれていた。
東京湾岸区の西、旧・防衛系ラボの跡地。今は名前を変えて、企業の怪異応用研究部門の、資材保管棟になっている建物だ。深夜二時、その三階から五階までが、内側から切り裂かれた。
防犯映像には、ほとんど何も映っていない。廊下の照明が、順番に落ちていく。防火扉が、紙のように断たれて倒れる。警備ドローンが、ローターだけを綺麗に落とされて、床を滑る。人影は、一瞬しか映らない。黒い、細い、女の形。その腕の周りで、空気だけが、薄く裂けている。
映像に音はない。だが、もし音があったなら、聞こえたはずだった。壁を切るたびに、その影が、何かを探すように、口を動かしていたのを。名前を呼ぼうとして、呼べずにいる者の、口の形を。
壊すために暴れる者は、まっすぐ壊す。だが、その影の暴れ方には、順番があった。引き出しを開ける。中を確かめる。ないとわかると、切る。次の引き出しを開ける。確かめる。切る。──探し物をして、見つからず、癇癪を起こす。子どもの、それに、似ていた。ただし、その子どもは、鉄の扉を紙のように断つ子どもだった。
映像の、最後のコマ。その影は、切り裂いた壁に、背をつけて、座り込んでいた。膝を抱えるように。探すのに、疲れた、というように。腕の周りの、空気の裂け目が、少しずつ収まっていく。だが、赤い光だけは、消えなかった。袖の下で、明滅し続けていた。誰かに呼ばれるのを、待っているように。あるいは、呼ばれるのを、恐れているように。
*
その報せを持ってきたのは、狐だった。
旧市街の地下喫茶《尻尾》の、いつもの席。だが、狐は、頼んでもいない濃い茶を、今日は俺の前に置かなかった。金の指輪も鳴らさない。金色の縦瞳が、めずらしく、まっすぐ俺を見ていた。
「久我くん。今日は、こっちから金は取らない。取れない種類の話だ」
「珍しいな」
「珍しいことしか、起きてないよ、昨夜から」
狐は、古い端末を、机に滑らせた。防犯映像の、切れ端。廊下を、黒い影が走る。腕の周りで、空気が裂ける。
俺は、それを見た瞬間、口の中の灰桜を、噛んだ。
「風を、刃にしてる」
「そうだ」
「鎌鼬か」
「そう見える。……でもね、久我くん。この街に、鎌鼬の戦闘個体なんて、そう何体もいない。むしろ、僕の知る限り、一体だけだ」
狐は、金色の目を、細めた。
「あんたのところの、あの子と、同じ匂いがする」
俺は、しばらく映像を見ていた。影の、風の切り方。腕の振り方。踏み込みの角度。──確かに、似ていた。似すぎていた。だが、一つだけ、違った。サエの刃は、必要なぶんだけ切る。この影は、切りすぎている。狙いを失った刃の、振り方だった。
「襲われたのは」
「西のラボ。……昔、あんたのいた部門と、同じ系列だ。今は看板を掛け替えて、怪異応用研究部門になってる」
俺は、灰桜のフィルターを、少し強く噛んだ。同じ系列。俺が企業の犬だった頃、あの手の施設で何が作られていたのかは、嫌になるほど知っていた。人を、道具に、作り変える場所だ。名前を番号に、意志を反応に、置き換える場所だ。
「なぜ、企業の個体が、企業の施設を襲う」
「そこだよ」
狐は、指を一本立てかけて、やめた。指輪は、鳴らさない。核心に触れるとき、この男は手が止まる。今日は、止まったまま、動かなかった。
「僕の勘だと、その個体、自分を探してる。……企業が、そいつを、消しにかかってる。名前ごとね。それに気づいて、暴れてる。消される前に、自分がいた証拠を、探してる。でも、企業はもう、消し始めてる。だから、どこにも、ない」
「証拠のない証明を、探して、暴れてるのか」
「そういうこった。……いちばん、質の悪い暴れ方だ。止めようがない。だって、そいつが欲しがってるのは、もう、この世にないものだから」
狐は、そこで、めずらしく、声を落とした。
「久我くん。この話、金は取らない。でも、一つだけ、言っとく。……近づくなら、あんた一人にしとけ。あの子は、連れていくな」
「なぜだ」
「同じ匂いのする奴に、近づけると、ろくなことにならない。……作られた側は、鏡を見ると、可怪しくなる」
俺は、答えなかった。狐の忠告は、たいてい、当たる。だが、当たるとわかっていても、守れない忠告が、この稼業には、いくつもあった。




