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倉庫を出ると、封鎖線の外に、まだミサキがいた。
彼女は、上着の内ポケットから、あの折り紙の舟を出していた。何度も畳み直された、不格好な舟を。港の黒い水際まで歩いて、しゃがみ、その舟をそっと水に置く。
舟は、頼りなく揺れた。すぐ沈むかと思った。だが、沈まなかった。夜の港の、油の浮いた水の上を、ゆっくりと、暗いほうへ流れていく。あの子が、浮かべたがって、浮かべられなかった舟だった。姉が、代わりに、浮かべた。
俺は、その舟を、目で追った。街の灯りの届かないほうへ、小さな紙の舟が、消えていく。──なぜか、あの空箱の底で、俺の足首から昇ってきた水の冷たさを、思い出した。関係のない水だ。関係のない水だと、思うことにした。
*
事務所に戻る頃には、空が白み始めていた。
サエは、めずらしく、すぐには帰らなかった。ソファに浅く座り、灰色の目を、半分閉じている。密閉の奥に長くいた夜のあとの彼女は、少しだけ静かになる。
「あの子、どうなった」
サエが、ぽつりと訊いた。ミサキの弟のことだ。
「消えないところへ、移した。古椿の棚だ。……姉ちゃんとは、もう、話せない。でも、いなかったことには、ならない」
「そう」
サエは、目を閉じたまま言った。
「私と、似てる」
「どこがだ」
「消された。でも、覚えてる奴がいる。……いなかったことには、なってない。それだけで、大きい」
彼女は、そこで、少し黙った。
窓の外で、朝一番の港が、目を覚まし始めていた。無人トラックの列が、番号のついた荷を、決められた道で運んでいく。数える街の、数えられる朝だ。その荷の、どれにも載らないものが、古い倉の空箱の中で、眠っている。
「さっきの、あれ」
サエが、目を開けて、俺を見た。
「倉庫で、あんたが、いなくなったやつ。……あれ、何だったの」
俺は、答えに詰まった。害意は、なかった。ただ、在るだけで、耐えられなかった。あんなものは、初めてだった。
「わからん」
俺は、正直に言った。
「向こうが、こっちを見た。……それだけは、わかる」
サエは、しばらく俺を見ていた。それから、視線を逸らした。
「……気に入らない」
「俺もだ」
「なにか、連れて帰ってきた顔してる」
その通りだった。
今夜、いちばん深い底へ手を伸ばしたら、もっと深い、もっと読めない何かに触れた。いや、触れられた、と言うべきかもしれない。あれはまだ、俺のどこかに、うっすらとくっついている。振り払い方も、わからないまま。
*
古椿から、通信が入った。
――子どもの声、確かに受け取った。古い棚に、入れておく。誰も読まん場所じゃ。読まんから、消えん。
俺は、少しだけ、息を吐いた。トウマの断片は、消えないところへ着いた。
続けて、もう一行が届いた。
――じゃが、久我ミナト。お前、妙なものに触れたな。
俺の指が、止まった。
――子どもの声の、もっと下じゃ。お前の死んだ半分の、いちばん底。そこで、何かの裾を踏んだのう。……頼みもせんのに、向こうが、袖を掴んできたじゃろう。
あの数秒のことを、古椿は、線の向こうから見ていたらしい。俺は、返事を打とうとして、打てなかった。
――あれが何かは、儂も知らん。記録なら、儂はたいてい覚えとる。じゃが、あれだけは、覚える取っ掛かりがない。名前の裏に、何も書いておらんのじゃ。古い呼び名が、ひとつ、あるきりでな。
――近づくのは、止めん。止めても、無駄じゃ。ただ、分かった気になるな。分かった気になった奴から、可怪しくなる。
最後に、短い一行が付け足されていた。
――呼んでおらんのに、応えられた。それが、いちばん、質が悪い。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
*
端末が、震えた。
差出人不明。件名なし。本文は、一行だった。
その一行が、これまでと、少し違った。
――倉は、片づけました。ですが、一つ、行方の知れないものがあります。それと、あなたは、どこへ行かれましたか。
俺は、しばらく、その画面を見ていた。
これまでの一行は、いつも、事実を置いていくだけだった。片づけた。回収した。次はこれだ。──向こうは、いつも、こちらの手を先に読んでいた。
だが、今夜は、問うている。行方の知れないもの。あなたは、どこへ。──俺が底からひとつ逃がしたことも、数秒だけ読めない場所へ行ったことも、向こうは掴めていない。いつも読まれる側だった俺の行き先を、向こうが、初めて、問うてきた。
喜んでいいのかは、わからなかった。向こうに読めない場所へ、俺が片足を突っ込んだ、というだけの話でもある。……ただ、あの帳簿にも、まだ手の届かない場所がある。それだけは、覚えておくことにした。
「なに」
サエが、片目を開けて訊いた。
「次の仕事の、勧誘だ」
「報酬は」
「向こうも、わかってないらしい」
「最悪」
「今夜は、それが、少しだけ、ましなんだ」
俺は灰桜に火をつけた。青白い煙が、朝になりかけた事務所の天井へ昇っていく。手の震えは、まだ完全には引いていなかった。
*
サエが、帰り際、ドアの前で足を止めた。
「さっきの、倉庫の、断片」
彼女が言った。
「私に似た記録が、あったでしょ」
「見たのか」
「匂いだけ。……でも、わかる。同じ工場の匂い」
サエの声は、平坦だった。平坦すぎた。
「あれ、上書きで消えた?」
「消えた。……たぶん」
「たぶん」
サエは、そこで、少し黙った。
「消えたなら、いい。……あれは、私の古い名前に繋がってる。命令用の名前に。呼ばれると、身体が勝手に言うことをきく、あの名前に」
彼女の左手が、無意識に、右の手首を押さえた。今は、何もない手首を。
「消えないほうが、よかった気もする。……あれが消えたら、あの名前で作られた、ほかの奴らも、いなかったことになるから」
「サエ」
「なんでもない」
彼女は、手を下ろした。
「忘れて。……今のは、なし」
だが、俺は、覚えておくことにした。覚えたまま、口にしない。それが、俺にできる、いちばんましな嘘だった。
サエの旧い名前は、消えたのか、また隠れただけなのか。今夜その断片が一瞬光ったことを、俺は忘れないでおく。遠くないうちに、それはまた、彼女のいちばん忘れたい形をして、こちらの前に出てくる。
サエはそれだけ言うと、濡れてもいないコートの襟を立て、雨上がりの匂いを残して出ていった。
*
俺は、一人になった事務所で、もう一度、あの倉庫のことを思った。
都市は、数える。番号で、記録で、帳簿で。数から漏れた者は、いないことにされる。……その数の外側に、覚える者がいて、匿う者がいる。おかげで今夜、声がひとつ、消えずに済んだ。それだけの話だった。
窓の外の港では、数える街の、数えられる朝が始まっていた。誰も乗っていない車が、決められた道を、正確に走っていく。その正確さのいちばん外側で、古い倉の空箱が、まだいくつかの声でいっぱいだった。
俺は、煙を吐いた。
ありもしない、下から昇る水の冷たさが、まだ体のどこかに残っている気がした。こちらが何も望んでいないのに、向こうから届いてきた、あの気持ちの悪さが。
あれが何かは、わからない。わからないまま、俺のどこかに、残った。振り払えない。触れられた場所だけが、まだ、濡れている気がする。
できることなら、二度と、近づきたくなかった。




