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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第九話 倉ぼっこは空箱に眠る

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9-9

 倉庫を出ると、封鎖線の外に、まだミサキがいた。


 彼女は、上着の内ポケットから、あの折り紙の舟を出していた。何度も畳み直された、不格好な舟を。港の黒い水際まで歩いて、しゃがみ、その舟をそっと水に置く。


 舟は、頼りなく揺れた。すぐ沈むかと思った。だが、沈まなかった。夜の港の、油の浮いた水の上を、ゆっくりと、暗いほうへ流れていく。あの子が、浮かべたがって、浮かべられなかった舟だった。姉が、代わりに、浮かべた。


 俺は、その舟を、目で追った。街の灯りの届かないほうへ、小さな紙の舟が、消えていく。──なぜか、あの空箱の底で、俺の足首から昇ってきた水の冷たさを、思い出した。関係のない水だ。関係のない水だと、思うことにした。


     *


 事務所に戻る頃には、空が白み始めていた。


 サエは、めずらしく、すぐには帰らなかった。ソファに浅く座り、灰色の目を、半分閉じている。密閉の奥に長くいた夜のあとの彼女は、少しだけ静かになる。


「あの子、どうなった」


 サエが、ぽつりと訊いた。ミサキの弟のことだ。


「消えないところへ、移した。古椿(ふるつばき)の棚だ。……姉ちゃんとは、もう、話せない。でも、いなかったことには、ならない」


「そう」


 サエは、目を閉じたまま言った。


「私と、似てる」


「どこがだ」


「消された。でも、覚えてる奴がいる。……いなかったことには、なってない。それだけで、大きい」


 彼女は、そこで、少し黙った。


 窓の外で、朝一番の港が、目を覚まし始めていた。無人トラックの列が、番号のついた荷を、決められた道で運んでいく。数える街の、数えられる朝だ。その荷の、どれにも載らないものが、古い倉の空箱の中で、眠っている。


「さっきの、あれ」


 サエが、目を開けて、俺を見た。


「倉庫で、あんたが、いなくなったやつ。……あれ、何だったの」


 俺は、答えに詰まった。害意は、なかった。ただ、在るだけで、耐えられなかった。あんなものは、初めてだった。


「わからん」


 俺は、正直に言った。


「向こうが、こっちを見た。……それだけは、わかる」


 サエは、しばらく俺を見ていた。それから、視線を逸らした。


「……気に入らない」


「俺もだ」


「なにか、連れて帰ってきた顔してる」


 その通りだった。


 今夜、いちばん深い底へ手を伸ばしたら、もっと深い、もっと読めない何かに触れた。いや、触れられた、と言うべきかもしれない。あれはまだ、俺のどこかに、うっすらとくっついている。振り払い方も、わからないまま。


     *


 古椿(ふるつばき)から、通信が入った。


 ――子どもの声、確かに受け取った。古い棚に、入れておく。誰も読まん場所じゃ。読まんから、消えん。


 俺は、少しだけ、息を吐いた。トウマの断片は、消えないところへ着いた。


 続けて、もう一行が届いた。


 ――じゃが、久我(くが)ミナト。お前、妙なものに触れたな。


 俺の指が、止まった。


 ――子どもの声の、もっと下じゃ。お前の死んだ半分の、いちばん底。そこで、何かの裾を踏んだのう。……頼みもせんのに、向こうが、袖を掴んできたじゃろう。


 あの数秒のことを、古椿(ふるつばき)は、線の向こうから見ていたらしい。俺は、返事を打とうとして、打てなかった。


 ――あれが何かは、儂も知らん。記録なら、儂はたいてい覚えとる。じゃが、あれだけは、覚える取っ掛かりがない。名前の裏に、何も書いておらんのじゃ。古い呼び名が、ひとつ、あるきりでな。


 ――近づくのは、止めん。止めても、無駄じゃ。ただ、分かった気になるな。分かった気になった奴から、可怪しくなる。


 最後に、短い一行が付け足されていた。


 ――呼んでおらんのに、応えられた。それが、いちばん、質が悪い。


 俺は、その一行を、しばらく見ていた。


     *


 端末が、震えた。


 差出人不明。件名なし。本文は、一行だった。


 その一行が、これまでと、少し違った。


 ――倉は、片づけました。ですが、一つ、行方の知れないものがあります。それと、あなたは、どこへ行かれましたか。


 俺は、しばらく、その画面を見ていた。


 これまでの一行は、いつも、事実を置いていくだけだった。片づけた。回収した。次はこれだ。──向こうは、いつも、こちらの手を先に読んでいた。


 だが、今夜は、問うている。行方の知れないもの。あなたは、どこへ。──俺が底からひとつ逃がしたことも、数秒だけ読めない場所へ行ったことも、向こうは掴めていない。いつも読まれる側だった俺の行き先を、向こうが、初めて、問うてきた。


 喜んでいいのかは、わからなかった。向こうに読めない場所へ、俺が片足を突っ込んだ、というだけの話でもある。……ただ、あの帳簿にも、まだ手の届かない場所がある。それだけは、覚えておくことにした。


「なに」


 サエが、片目を開けて訊いた。


「次の仕事の、勧誘だ」


「報酬は」


「向こうも、わかってないらしい」


「最悪」


「今夜は、それが、少しだけ、ましなんだ」


 俺は灰桜(はいざくら)に火をつけた。青白い煙が、朝になりかけた事務所の天井へ昇っていく。手の震えは、まだ完全には引いていなかった。


     *


 サエが、帰り際、ドアの前で足を止めた。


「さっきの、倉庫の、断片」


 彼女が言った。


「私に似た記録が、あったでしょ」


「見たのか」


「匂いだけ。……でも、わかる。同じ工場の匂い」


 サエの声は、平坦だった。平坦すぎた。


「あれ、上書きで消えた?」


「消えた。……たぶん」


「たぶん」


 サエは、そこで、少し黙った。


「消えたなら、いい。……あれは、私の古い名前に繋がってる。命令用の名前に。呼ばれると、身体が勝手に言うことをきく、あの名前に」


 彼女の左手が、無意識に、右の手首を押さえた。今は、何もない手首を。


「消えないほうが、よかった気もする。……あれが消えたら、あの名前で作られた、ほかの奴らも、いなかったことになるから」


「サエ」


「なんでもない」


 彼女は、手を下ろした。


「忘れて。……今のは、なし」


 だが、俺は、覚えておくことにした。覚えたまま、口にしない。それが、俺にできる、いちばんましな嘘だった。


 サエの旧い名前は、消えたのか、また隠れただけなのか。今夜その断片が一瞬光ったことを、俺は忘れないでおく。遠くないうちに、それはまた、彼女のいちばん忘れたい形をして、こちらの前に出てくる。


 サエはそれだけ言うと、濡れてもいないコートの襟を立て、雨上がりの匂いを残して出ていった。


     *


 俺は、一人になった事務所で、もう一度、あの倉庫のことを思った。


 都市は、数える。番号で、記録で、帳簿で。数から漏れた者は、いないことにされる。……その数の外側に、覚える者がいて、匿う者がいる。おかげで今夜、声がひとつ、消えずに済んだ。それだけの話だった。


 窓の外の港では、数える街の、数えられる朝が始まっていた。誰も乗っていない車が、決められた道を、正確に走っていく。その正確さのいちばん外側で、古い倉の空箱が、まだいくつかの声でいっぱいだった。


 俺は、煙を吐いた。


 ありもしない、下から昇る水の冷たさが、まだ体のどこかに残っている気がした。こちらが何も望んでいないのに、向こうから届いてきた、あの気持ちの悪さが。


 あれが何かは、わからない。わからないまま、俺のどこかに、残った。振り払えない。触れられた場所だけが、まだ、濡れている気がする。


 できることなら、二度と、近づきたくなかった。

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