9-8
ミサキは、倉庫の外の、封鎖線の手前に立っていた。
中には、入れなかった。企業の警備と、認証ゲートが、彼女を通さない。彼女はただ、暗い倉庫を見上げて待っていた。弟の声のする、空箱の墓場を。
「ミサキさん。一つ、頼みがある」
端末越しに、俺は言った。
『……はい』
「あの子の名前を、呼んでやってくれ。大きい声で」
『名前を』
「声が、散らばってる。切れ切れで、このままじゃ、掬い上げるには足りない。……覚えてる人間に呼ばれると、散らばったものが、少しだけ揃うらしい。理屈は知らん。この稼業をやってると、そういうものに、何度か出くわす」
ミサキが、息を吸う音がした。
それから、封鎖線の外で、彼女は、暗い倉庫に向かって叫んだ。
「トウマ!」
俺の指の先で、子どもの光が、跳ねた。
切れ切れだった断片が、その一声のほうへ寄っていく。ばらばらに明滅していた光が、ひとつの塊に集まっていく。名前を呼ばれた側が、名前のほうへ、集まっていく。
行政の帳簿から、この子の名前は消えている。生まれた記録も、姉の弟だった記録も。残っていたのは、姉の口の中だけだ。──それでも、呼べば、届いた。
俺はその、いちばん揃った一瞬を掬い上げて、端末越しに姉のほうへ通した。
『……ねえちゃん』
ミサキの端末から、その声が流れた。
彼女の手が、口を押さえた。
『ねえちゃん、まだ、いる?』
「……いる」
ミサキの声が、掠れた。
「いるよ。ずっと、いる。トウマのこと、忘れてない。ずっと、覚えてる」
『よかった』
子どもの声が言った。
『ぼく、消えるとき、ねえちゃんが忘れちゃったら、どうしよう、って。……でも、覚えてて、くれた』
「忘れない。絶対に」
『ぼくも、覚えてる。ねえちゃんの、手の、あったかいの』
その一往復で、終わりだった。
トウマの声が、また途切れがちの切れ端に戻っていく。言葉になりきらない、残りかすに。俺はその断片を、古い通信線から古椿の消えない棚へ、そっと流し込んだ。
子どもの光が、俺の指先から離れていく。消えたのでは、ない。もっと深い、もっと古い、誰も上書きできない場所へ、移っていく。そこで、この子は"いた"まま眠る。取りに来る者は、いない。それでも、いなかったことにはならない。
封鎖線の外で、ミサキが、端末を両手で握りしめていた。声は、もう、しない。だが、彼女はその端末を、まるで弟の手を握るように、しばらく放さなかった。
連れては、帰れなかった。話し続けることも、できなかった。
だが、彼女の弟は、もう、いなかったことにはならない。
全部は、救えない。ひとつの声を、今夜だけ、消えないところへ逃がす。帳外屋にできるのは、いつも、それくらいだった。
*
上書き処理は、止まらなかった。
空箱の光は、ほとんどが消えた。倉ぼっこが、長いあいだ抱えてきた声の、大半が失われた。ルカの人格モデルの断片も、サエに似た記録の切れ端も、俺の死んだ半分の控えも、白帳整理の四文字も、上書きの波に呑まれて消えた。
だが、倉ぼっこ自身は、消えなかった。
倉は、残った。上書きされたのは、中身だ。器は、残る。古い倉庫は、また空になった。取りに来る者のいない時間だけが、そこに戻ってきた。
『……久しぶりに、空になった』
倉ぼっこが言った。無数だった声が、今は、ずいぶん少ない。
『長く、いっぱいだった。……預かったものが、多すぎて。ひとつも捨てられなくて。──今夜、ほとんど持っていかれた。ひとつだけ、逃がしてくれたが』
「悪かった」
『いや』
倉が、かすかに軋んだ。
『空になった倉は、また預かれる。……次に、捨てられた声が来たときに。……倉は、それが性分だ』
そのとき、倉庫の、いちばん古い保守回線が、かすかに明滅した。
俺の端末に、それが拾われた。旧防災系統からの、細い信号。古い設備コードだ。赤、緑、緑。
俺は、その明滅を、しばらく見ていた。
以前、ビルに宿った、あの小さな座敷童の合図だった。赤緑緑。──また来てください。あの子は、ビルから出られない。出ないまま、旧防災系統と保守回線を通じて、この港の古い倉まで細い信号を届けていた。
ビルの座敷童から、港の倉ぼっこへ。忘れない器どうしが、都市の忘れられた回線で、繋がっていた。
『……知らない子から、合図が来た』
倉ぼっこが言った。少し、戸惑ったような声だった。
「知り合いだ。ビルから出られない、座敷童だ。……あんたのことを、心配してる」
『そうか』
倉が、また軋んだ。今度は、少し、笑ったように聞こえた。
『……忘れない者は、案外、多いな。数える者ばかりの、この街にも』




