9-7
トウマの断片を、深い底から、掬い上げる。
死者の権限で、俺は、消される寸前の子どもの光を、いちばん底から引き上げた。上書きの波が、すぐ後ろまで迫っている。空箱の光が、俺の背後で、次々と消えていく。あと一歩、遅ければ、この子も消えていた。
簡単では、なかった。
上書きの波は、速い。機械の速さだ。俺の死んだ半分の権限は、古い規格で、正規の速度では動かない。一文字ずつ、掠れた回線を、記録が這っていく。その這う速さより、消していく波のほうが速かった。
背後で、光が、列ごと消えていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。トウマの箱に向かって、闇が迫ってくる。
「サエ」
「わかってる。……でも、私、これは切れない」
サエが低く言った。悔しそうだった。風は、鉄を切れる。管制ドローンも、封鎖ゲートも。だが、消えていく光は切れない。刃の立たない相手が、彼女は、いちばん嫌いだ。彼女は、ただ、俺の隣に立って、消えていく箱を見ているしかなかった。
だが、上書きは、帳簿の中だけでは終わらなかった。
倉庫の天井で、無人クレーンが動き出す。消し終えた空箱を、片づけるためだ。太い搬送アームが、トウマの箱めがけて降りてくる。データを消し、器も潰す。それが、"整理"だった。
サエの袖で、赤い駆動線が灯った。
「それなら、切れる」
狭い通路を抜ける空気が、細い刃の束になる。降りてきたアームの関節が、根元から断たれ、火花を散らして床に落ちた。クレーンが、止まる。トウマの箱は、まだそこにあった。
「早くして。二本目が来る」
俺は、掠れた回線に、死んだ半分の全部を通した。手の震えが、指先まで走る。それでも、止めなかった。震えたまま、記録を這わせる。消える波と、掬い上げる指の、追いかけっこだった。
頭上で、金属が軋んだ。
二本目のアームが、降りてくる。
俺は、手を抜けなかった。抜けば、いま指先で掴んでいる子どもの光が、そのまま消える波に呑まれる。這わせている記録も、途中で切れる。──この場所から、動けない。
「サエ」
「わかってる」
彼女は、俺の上に、覆いかぶさるように立った。
赤い駆動線が、袖の下で灯る。降りてきた二本目の関節が、根元から断たれて落ちた。鉄の塊が、俺の背中のすぐ横で、床を叩く。埃と錆の粉が、舞い上がった。
三本目が、来た。
今度は、アームではない。搬送機の本体だ。片づけ用の鈍重な鉄の塊が、レールを滑って、こちらへ寄せてくる。
「動くな」
サエが言った。
風が鳴った。彼女の刃は、鉄を、切れるだけ切った。だが、質量までは切れない。断たれた本体が傾いて、コンテナの列に突っ込む。積み上がっていた空箱が、崩れた。
俺の頭の上に、鉄の箱が落ちてくるのが、視界の端に見えた。
サエが、それを切った。
落ちてきた空箱は、俺に当たる前に二つに割れて、左右へ落ちた。割れた断面が、綺麗すぎた。
彼女の袖の下で、赤い駆動線が、不安定に明滅していた。消耗している。この女が、これほど連続で刃を振るうのは、めずらしかった。
「……まだ」
「もう少しだ」
「もう少しって、さっきから言ってる」
「今度は、本当だ」
軽口を叩きながら、彼女は、俺の上から、どかなかった。
子どもの光が、俺の指の先で、弱く震えた。
『ねえちゃんに、会える?』
トウマが訊いた。
俺は、答えに詰まった。
会えない。連れて帰れない。この子は、もう、生きてはいない。断片を、消えない棚へ移せても、生き返らせることはできない。
できるのは、この子が"いた"ということを、もう、消せなくすることだけだ。
「……姉ちゃんの声を、一度だけ、届ける」
俺は言った。
「一度だけだ。それ以上は、できない。……悪いな」
『いちどで、いい』
子どもの光が、少しだけ強くなった。
『ねえちゃんの声、ひさしぶり、だから』
俺は、端末を、外の通信に繋いだ。倉庫の外で待っているミサキへ。




