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気がつくと、俺は、倉庫の床に膝をついていた。
空箱の、いちばん奥。手はまだ、いちばん底の隙間に突っ込んだままだった。子どもの光が、すぐ目の前で、弱く明滅している。
数秒。たぶん、数秒しか経っていない。
だが、俺の体には、水の感触が残っていた。ありもしない水だ。倉庫は、乾いている。それでも、足首から腰まで下から昇ってきた水の冷たさが、まだあった。
灰桜の青い火が、荒れていた。ふだんは静かに点る青が、今は明滅して、不安定に揺れている。手の震えが、止まらない。ケースの角を指で確かめても、引かない。
「ミナト」
サエの声が、すぐ横でした。
彼女は、いつのまにか、俺の隣まで来ていた。あれほど近づきたがらなかった密閉の奥へ、彼女は、来ていた。俺の顔を、覗き込んでいる。灰色の目に、めずらしく、はっきりとした動揺があった。
「今、あんた、いなくなった」
「いなくなってない。ここにいる」
「そういう意味じゃない」
サエの声が低くなった。
「数秒だけ、あんたが、ここにいなかった。……体は、あった。でも、中身が、どこか別の、遠いところに行ってた。私、あんたのそういう顔、初めて見た。フラッシュバックとも違う。……あれは、なに」
俺は、答えられなかった。
何が起きたのか、自分でもわからない。ただ、水の匂いと、気持ちの悪さだけが、体に残っている。説明する言葉を、俺は、持っていなかった。
「わからん」
俺は、それだけ言った。
「手を、伸ばした。それだけだ。……そうしたら、向こうが、いた」
サエは、しばらく俺を見ていた。それから、俺の腕を掴んで、引いた。
「もう、いい。その子の声、拾えたんでしょ。……ここ、出よう。あんた、ここにいると、また、いなくなる」
彼女の手が、俺の腕の上で、少しだけ震えていた。彼女も、密閉の奥にいる。実験区画に似た、この場所に。それでも、俺を引くために、いちばん奥まで、来ていた。
俺は、いちばん底の隙間に手を残したまま、子どもの光に囁いた。
「トウマ。もう少しだ。しっかり、俺の指に掴まってろ」
子どもの光が、弱く明滅した。掴まった、という返事だと、思うことにした。
*
倉庫の照明が、一斉に、白く変わった。
人のためではない、機械のための光。それが、いっそう白く、強くなる。天井のスピーカーから、明るい合成音声が流れた。
『保管人格整理を、開始します。当区画の、記録外人格反応を、上書き処理します』
三日、と狐は言った。だが、俺が底の記録に手を突っ込んだせいで、システムが、この区画の異常を早く検知したらしい。俺が深く触れるほど、片づけは早まる。
上書き処理。空箱の中の声を、まとめて消す。
積み上がったコンテナのあちこちで、灯っていた弱い光が、端から消え始めた。
『……三丁目の、角の……』
『……あの子は、元気に……』
途切れていた声が、途切れる前に、消えていく。ひとつ、またひとつ。廃棄された者たちの、最後の残りかすが、上書きされていく。今度こそ、本当に、いなかったことになっていく。
『やめて』
倉ぼっこの声が、倉庫じゅうに響いた。無数の声が、初めて揃った。
『それは、わたしが預かったものだ。取りに来る人が、いなくても。……捨てないと約束した。倉は、預かったものを、勝手に捨てない』
「倉ぼっこ。全部は、守れない」
俺は、立ち上がった。手はまだ、トウマの光に繋いだままだ。
「上書きは、止められない。企業の権限が、上から来てる。俺の古い鍵じゃ、押さえきれない。……だが、ひとつだけなら、逃がせる」
『ひとつ』
「消えないところへ移す。この倉から、もっと古い、もっと深い、誰も上書きできない棚へ。……全部は、無理だ。ひとつだけだ」
倉が、長いあいだ答えなかった。
積み上がった空箱の光が、次々と消えていく。倉ぼっこが、長いあいだ抱えてきた声が、端から失われていく。
消えていく光の、ひとつひとつに、倉庫が、小さく軋んだ。悲鳴では、なかった。こらえる音だった。倉ぼっこは、抵抗しなかった。できなかった。ただ、消えていく光を、ひとつずつ、最後まで見ていた。数えるように、見ていた。
『……いちばん、深い子を』
倉ぼっこが言った。
『いちばん深く沈んだ子を、頼む。……その子は、いちばん消されやすい。記録ごと消された子だ。ここで消えたら、もう、どこにもいない』
「わかった」
俺は、死んだ半分の権限を開いたまま、古い規格の通信線を探した。倉庫の壁の、いちばん古い保守回線。企業のシステムが、更新し忘れた、忘れられた線。そこから、もっと深いところへ繋ぐ。
旧行政バックボーンの、いちばん奥。古い付喪神の、消えない棚だ。
――古椿。一つ、そっちへ送る。子どもの、声だ。消えないところに、置いてくれ。
返事は、すぐには来なかった。古い妖怪は、古い道を、ゆっくり通る。だが、線の向こうで、確かに、何かが受け取る気配があった。




