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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第九話 倉ぼっこは空箱に眠る

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9-6

 気がつくと、俺は、倉庫の床に膝をついていた。


 空箱の、いちばん奥。手はまだ、いちばん底の隙間に突っ込んだままだった。子どもの光が、すぐ目の前で、弱く明滅している。


 数秒。たぶん、数秒しか経っていない。


 だが、俺の体には、水の感触が残っていた。ありもしない水だ。倉庫は、乾いている。それでも、足首から腰まで下から昇ってきた水の冷たさが、まだあった。


 灰桜(はいざくら)の青い火が、荒れていた。ふだんは静かに点る青が、今は明滅して、不安定に揺れている。手の震えが、止まらない。ケースの角を指で確かめても、引かない。


「ミナト」


 サエの声が、すぐ横でした。


 彼女は、いつのまにか、俺の隣まで来ていた。あれほど近づきたがらなかった密閉の奥へ、彼女は、来ていた。俺の顔を、覗き込んでいる。灰色の目に、めずらしく、はっきりとした動揺があった。


「今、あんた、いなくなった」


「いなくなってない。ここにいる」


「そういう意味じゃない」


 サエの声が低くなった。


「数秒だけ、あんたが、ここにいなかった。……体は、あった。でも、中身が、どこか別の、遠いところに行ってた。私、あんたのそういう顔、初めて見た。フラッシュバックとも違う。……あれは、なに」


 俺は、答えられなかった。


 何が起きたのか、自分でもわからない。ただ、水の匂いと、気持ちの悪さだけが、体に残っている。説明する言葉を、俺は、持っていなかった。


「わからん」


 俺は、それだけ言った。


「手を、伸ばした。それだけだ。……そうしたら、向こうが、いた」


 サエは、しばらく俺を見ていた。それから、俺の腕を掴んで、引いた。


「もう、いい。その子の声、拾えたんでしょ。……ここ、出よう。あんた、ここにいると、また、いなくなる」


 彼女の手が、俺の腕の上で、少しだけ震えていた。彼女も、密閉の奥にいる。実験区画に似た、この場所に。それでも、俺を引くために、いちばん奥まで、来ていた。


 俺は、いちばん底の隙間に手を残したまま、子どもの光に囁いた。


「トウマ。もう少しだ。しっかり、俺の指に掴まってろ」


 子どもの光が、弱く明滅した。掴まった、という返事だと、思うことにした。


     *


 倉庫の照明が、一斉に、白く変わった。


 人のためではない、機械のための光。それが、いっそう白く、強くなる。天井のスピーカーから、明るい合成音声が流れた。


『保管人格整理を、開始します。当区画の、記録外人格反応を、上書き処理します』


 三日、と狐は言った。だが、俺が底の記録に手を突っ込んだせいで、システムが、この区画の異常を早く検知したらしい。俺が深く触れるほど、片づけは早まる。


 上書き処理。空箱の中の声を、まとめて消す。


 積み上がったコンテナのあちこちで、灯っていた弱い光が、端から消え始めた。


『……三丁目の、角の……』


『……あの子は、元気に……』


 途切れていた声が、途切れる前に、消えていく。ひとつ、またひとつ。廃棄された者たちの、最後の残りかすが、上書きされていく。今度こそ、本当に、いなかったことになっていく。


『やめて』


 (くら)ぼっこの声が、倉庫じゅうに響いた。無数の声が、初めて揃った。


『それは、わたしが預かったものだ。取りに来る人が、いなくても。……捨てないと約束した。倉は、預かったものを、勝手に捨てない』


(くら)ぼっこ。全部は、守れない」


 俺は、立ち上がった。手はまだ、トウマの光に繋いだままだ。


「上書きは、止められない。企業の権限が、上から来てる。俺の古い鍵じゃ、押さえきれない。……だが、ひとつだけなら、逃がせる」


『ひとつ』


「消えないところへ移す。この倉から、もっと古い、もっと深い、誰も上書きできない棚へ。……全部は、無理だ。ひとつだけだ」


 倉が、長いあいだ答えなかった。


 積み上がった空箱の光が、次々と消えていく。(くら)ぼっこが、長いあいだ抱えてきた声が、端から失われていく。


 消えていく光の、ひとつひとつに、倉庫が、小さく軋んだ。悲鳴では、なかった。こらえる音だった。(くら)ぼっこは、抵抗しなかった。できなかった。ただ、消えていく光を、ひとつずつ、最後まで見ていた。数えるように、見ていた。


『……いちばん、深い子を』


 (くら)ぼっこが言った。


『いちばん深く沈んだ子を、頼む。……その子は、いちばん消されやすい。記録ごと消された子だ。ここで消えたら、もう、どこにもいない』


「わかった」


 俺は、死んだ半分の権限を開いたまま、古い規格の通信線を探した。倉庫の壁の、いちばん古い保守回線。企業のシステムが、更新し忘れた、忘れられた線。そこから、もっと深いところへ繋ぐ。


 旧行政バックボーンの、いちばん奥。古い付喪神(つくもがみ)の、消えない棚だ。


 ――古椿(ふるつばき)。一つ、そっちへ送る。子どもの、声だ。消えないところに、置いてくれ。


 返事は、すぐには来なかった。古い妖怪は、古い道を、ゆっくり通る。だが、線の向こうで、確かに、何かが受け取る気配があった。

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