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その箱は、コンテナの列の、いちばん奥、いちばん下にあった。
上に、ほかの空箱が、幾重にも積み上がっている。俺は、その隙間に手を入れた。狭い。冷たい鉄が、手首を擦る。奥のほうで、子どもの光が、弱く明滅していた。
『ねえちゃん、じゃ、ないね』
子どもの声がした。トウマの声だった。ミサキが聞いた、あの声だ。
「ああ。姉ちゃんじゃない。姉ちゃんに、頼まれて来た」
『ねえちゃん、まだ、いる?』
「いる。外で、待ってる」
子どもの光が、ほんの少し強くなった。喜んだのだ、とわかった。文になりきらない声で、それでも、この子は、姉のことを覚えていた。覚えられている姉のほうも、この子を覚えていた。互いが互いを覚えているうちは、まだ二人とも、いなかったことにはなっていない。
だが、その光は、深すぎた。
積み上がった空箱の、いちばん底。俺の手は、届かない。ふつうの手では。
俺は、内ポケットの奥に沈んだ、あの権限のことを思った。地下で見つけた、俺自身の、死んだ名前。都市が保守員として使役している、俺の半分。あれは傷であり、鍵でもある、と古椿は言った。塞ぐな、とも。
死者の権限なら、消された記録の、いちばん深いところへ、手が届く。消されたものと、死んだものは、同じ深さに沈むからだ。
俺は、迷った。
この鍵を使うたびに、生きている俺の輪郭が、少しずつ薄くなる。それは、地下で思い知った。だが、使わなければ、この子には届かない。
俺は灰桜を強く噛んだ。青い光。手が、震えている。それでも俺は、死んだ半分の権限を開いた。
嫌な感覚だった。自分の名前で自分を名乗るのに、それが死人の名前で、しかも企業の権限だ。俺は、俺の死体の中に、もぐり込んでいた。指が迷わず、消された記録の階層を降りていく。どこを辿れば、いちばん深い箱に届くか、頭より先に、手が知っていた。
死んでいるほうの俺は、生きているほうの俺より、こういう場所に、よほど慣れていた。
降りていくほど、匂いが変わった。ありもしない匂いだ。消えた記録の階層に、匂いなんて、ない。それでも、鼻の奥が、それを嗅いだ。消毒液。乾かない何か。白い報告書。──待機室の匂いだった。
深いところは、あの部屋に似ていた。感情を消した、清潔な場所。企業にいた頃、次の"回収対象"を受け取った、あの部屋に。回収対象、何番。停止許可、発令済み。──その声が、また頭の奥で鳴りかけた。俺は灰桜を噛んだ。今はここだ。港湾の古い倉。あの部屋じゃない。俺は、あそこにはいない。
震える手で、俺は、もっと深く降りた。この子を拾うために。かつて俺が、拾わずに消してきたかもしれない誰かのぶんも、込めて。
手が、届いた。
いちばん底の、子どもの光に、俺の指先が触れた。
トウマの断片が、応えるように震えた。
『……つめたい、手』
子どもが言った。
「悪いな。冷え性なんだ」
『ねえちゃんの手は、あったかい』
「知ってる。──今から、姉ちゃんの声が届くところへ、連れていく。深いところは、もうすぐ消される。だから、もっと、消えないところへ」
俺は、その断片を、掬い上げようとした。
死者の権限で、いちばん底へ深く手を伸ばした。
その、瞬間だった。
*
底が、抜けた。
空箱の底が、ではない。俺の、死んだ半分の、いちばん深いところ。消された記録が沈む、その、さらに下。触れてはいけない、はずの深さ。そこで、何かが俺の手に応えた。
呼んでいない。
俺は、トウマの断片に、手を伸ばしただけだ。だが、その手が小さな箱を通り抜けて、もっと大きな箱の中へ届いてしまった。
水の匂いがした。
埋め立てられた、古い水の匂い。沈められた洲の、底の匂い。
俺は、いつのまにか、暗い水の中に立っていた。倉庫では、ない。どこでもない。目の前に、すりガラスのような、曇った壁がある。その向こうに、影が、ある。何かが、居る。大きい。人の背丈の、何倍もある。姿は、像を結ばない。目を凝らすほど、輪郭が、増える。ひとつだった影が、ふたつに、みっつに、ぶれる。目が、多すぎる。どこを見ても、こちらを見返す何かが、ある。
害意は、なかった。
それが、いちばん、恐ろしかった。
脅されているのでも、掴まれているのでもない。ただ、そこに、在る。在るだけで、耐えられない。
水が、下から、昇ってきた。
低いほうへ流れるはずの水が、俺の足首から膝へ、腰へと、下から逆に昇ってくる。都市の理屈が、ここでは、通じない。
さわさわ、と、音がした。
葉擦れのような。衣擦れのような。あるいは、大勢がいっせいに、こちらへ何かを囁くような。溺れた者たちの口が、いちどに開いたような。妙な、音だった。美しくて、気持ちが悪い。意味は、ない。あるいは、意味がありすぎて、こちらの頭では掬いきれない。
俺は、意味を探そうとした。この影は、何を望んでいるのか。何をしに来たのか。──探すほど、足元が崩れた。望みがない。理由がない。理由のないものに理由をあてがおうとして、俺の頭のほうが、少しずつ、ずれていく。恐ろしいのは、影では、なかった。
すりガラスの向こうの影が、ほんの少し、動いた気がした。
気のせいかもしれない。
その揺れた影の褪せた色が、俺の目に焼きついた。味方の、雨や夜の抑制した色でもない。企業の、毒々しい多色でもない。第三の色だった。水面の、鈍い照り返し。常夜灯の、頼りない灯り。古い金泥の、褪せた金色。街の、どの色にも、属さない色。
俺は、口を開いた。何か、言おうとした。だが、声は、出なかった。
こちらの言葉は、届かない。届いても、ずれて、返ってくる。交渉には、ならない。取引にも、ならない。ただ、そこに、在るだけの、何か。
引き戻された。
誰かが、俺を、引いた。あるいは、俺が勝手にこぼれ落ちた。どちらか、わからない。




