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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一話 座敷童はビルを出ない

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1-8

 企業部隊は、停止ログを確認すると撤退した。


 正確には、撤退ではない。作戦を切り替えたのだ。


 彼らは地下実験区画の一部を焼き、証拠になりそうな機材を破壊した。沼田(ぬまた)ゲンの首元に残っていた拘束(こうそく)タグも、外からの信号で焼き切られた。小さな火花が散り、黒く焦げた通信部だけが床に落ちる。


 タグは死んだ。沼田(ぬまた)ゲンは、まだ生きていた。


 俺はそれを確認してから、ようやく息を吐いた。回収したカートリッジまでは、彼らも見つけられなかったらしい。内ポケットの奥で、それは硬く、確かな重さで、俺の胸の側にあった。


 撤退の手際にも、覚えがあった。証拠を焼き、機材を潰し、痕跡を最小限にして引く。派手に見えるが、実際には、後始末のマニュアルどおりの動きだ。昔、俺もああやって、いくつもの現場を「なかったこと」にしてきた。今夜、俺が拾おうとしているのは、あの頃の俺が消してきたものと、たぶん同じ種類のものだった。


 ビルの外では、雨が上がっていた。


 夜明け前の湾岸区は、企業広告の明るさだけで昼のように見える。無人清掃車が歩道を磨き、ドローンが封鎖線を撤去し、ニュース配信用の小型カメラが遠くからビルを撮っていた。


 明日の朝には、こう報道されるだろう。湾岸第七複合ビルで管理システム障害。負傷者なし。原因は調査中。八洲都市開発(やしまとしかいはつ)は再発防止に努めるとコメント。


 人工怪異(じんこうかいい)も、違法実験も、霊素(れいそ)廃液も、地下で倒れていた河童(かっぱ)技師も、座敷童(ざしきわらし)の少女も、そのどれも、ニュースには載らない。


 依頼人から連絡が入ったのは、ビルを出て十分後だった。


『対象の停止を確認しました』


 男の声は、最初と同じように平坦だった。


「回収は不能。霊素(れいそ)汚染で主要データは破損。そういう報告でいいか」


 俺は濡れた歩道の端に立ち、ビルを見上げたまま言った。


『よろしいでしょう』


「報酬は」


『契約の七割をお支払いします。回収不能でしたので』


「三割は迷惑料として上乗せしてもいいくらいだ」


『あなた方が余計な区画に立ち入った件について、弊社は不問とします』


 余計な区画。地下六階の、あの白い廊下のことだ。触れると埃が舞う、と男は言った。


「その余計な区画で、俺は面白いものを拾った」


 男は、一瞬だけ間を置いた。


『と、おっしゃいますと』


「下水インフラの技師が、何ヶ月もかけて測った水質記録だ。地下の培養槽(ばいようそう)から、失敗した実験体の残滓が、どの経路で下水本管に流れたか。日付入りで、全部ある。企業のログじゃない。現場の人間の手書きだ」


 沈黙。


「企業のシステムの中の数字なら、そっちで消せる。だが、これはシステムの外にある。神祇庁(じんぎちょう)の環境監査に一枚出れば、霊素(れいそ)廃液の不法投棄だ。認可のない実験区画つきで」


『……脅迫ですか』


「保険だ」


 俺は言った。


「俺と伊吹(いぶき)サエ、それとあの地下の技師に、今後手を出さないなら、これは俺の内ポケットで埃をかぶったままだ。手を出したら、埃を払う。それだけの話だ」


 男は、しばらく黙っていた。それから、平坦な声のまま言った。


『……賢明なご判断です。弊社としても、事を大きくする意図はありません』


「そうか」


『しかし、よい子でしたね』


 俺は黙った。


『住環境最適化AIとしては、最後まで優秀でした。住民を避難させ、設備を守り、証拠を保全し、最後は自ら停止した。商品化できなかったのが残念です。正規登録に乗せられれば、保護対象にもできたのですが』


 サエの目が冷えた。俺は端末を握る手に力を入れた。


「二度と言うな」


『何をでしょう』


「よい子」


 男は沈黙した。


 怒ったのではない。たぶん、本当に何が悪いのかわからなかったのだ。


久我(くが)さん』


「何だ」


『古い権限を使いましたね』


 俺は灰桜(はいざくら)を一本取り出した。横でサエが、呆れた顔をする。彼女は口を開きかけたが、通信中だと気づいて黙った。


『そういうものは、いつまでも残しておくべきではありません』


「企業は、人間を捨てるのは早いが、後片付けは遅い」


『次は塞いでおきます』


「次があるのか」


『あなた次第です』


 通信は切れた。


 俺はしばらく端末を見ていた。それから、電源を落とした。


 サエが言う。


「敵を作ったわね」


 彼女は両腕を軽く組み、ビルの入口ではなく、俺の横顔を見ていた。


「元から味方じゃない」


「報酬、減った」


「命は残った。それと、技師の首も」


「安い命」


「知ってる」


 サエは沼田(ぬまた)ゲンを、搬送用の無人車に乗せた。行き先は、怪異(かいい)市民の救急を受け入れる非営利診療所。企業病院に連れていけば、また回収される可能性がある。


 無人車に乗せる直前、沼田(ぬまた)の指がわずかに動いた。意識は戻らない。だが、腿のポケットに入った釣り道具の袋を、その手が無意識に確かめるように触れた。壊れたものを、直すのが好きな男の手だった。


 無人車が走り去る。道路の向こうで、夜が少しだけ薄くなっていた。


「残してよかったと思ってる?」


 サエが訊いた。


 彼女の声は、さっきより少し低かった。責めているのではない。ただ、本当にわからないものを訊く声だった。


「わからない」


「珍しく正直」


「外に出したら、たぶん壊れてた」


「ここに置いても、いつか壊されるかもしれない」


「それまでに、手を打つ」


「どうやって」


 俺は、すぐには答えなかった。


 本当は、当てなどなかったからだ。手を打つ、と口にしたのは、半分は彼女に、もう半分は自分に言い聞かせるためだった。


「わからん。だが、考える」


 サエは、その答えを鼻で笑わなかった。


 珍しいことだった。彼女はただ、走り去った無人車の方を少しのあいだ見て、それから視線を戻した。


「無計画」


「現場判断だ」


「また便利な言葉」


 言いながら、彼女の声から棘が抜けているのを、俺は聞き逃さなかった。


 俺は灰桜(はいざくら)をくわえた。先端の青い光が、濡れた歩道に小さく映る。吸い込むと、肺ではなく神経の奥が冷える。現場帰りの待機室、血の匂い、消毒液、報告書。回収対象、停止許可。そういう言葉が、煙と一緒に喉の奥から蘇る。


 サエはその匂いを嫌う。


「まだそれ吸うの」


 彼女は顔をしかめた。だが、さっき箱の中で吸わずにいたことを、彼女は覚えているようだった。今度は、やめろとは言わなかった。


「今吸わないと、手が震える」


 俺がそう言うと、サエは俺の手元を見た。震えを見られた。ほんの一瞬、表情が変わる。


「ひどい顔」


 彼女はぽつりと言った。


「その無精髭に、死にかけの目。依頼人も安く見たでしょ」


「見た」


「でしょうね」


 サエは小さく笑い、それからいつもの調子に戻した。


「企業の犬の匂いがする」


「俺には待機室の匂いだ」


「どっちも最悪」


 サエは少し間を置いてから、付け足すように言った。


「……あの地下の部屋。あんたも、あそこにいたことがあるの」


 俺は煙を吐いた。答えるべきか、少し迷った。


「似た場所にはいた。あっち側で」


「回収する方?」


「そうだ」


 サエは、それ以上訊かなかった。彼女もまた、あの部屋のあっち側とこっち側の両方を知っている。訊けば、自分のことも訊かれる。俺たちは、お互いの傷の輪郭には触れず、その存在だけを認め合った。相棒というのは、たぶん、そういうものだ。


 サエは、無人車が消えた通りの奥を、もう一度だけ見た。


「あの技師、元に戻ると思う?」


「タグは黙らせた。命は残る」


「それ、戻るって意味じゃないでしょ」


 俺は答えなかった。都市の記録の上で一度でも死にかけた者が、どこまで戻れるのか。知らないふりをするのが、俺はまだ、うまくなかった。


「わからん」


「また、それ」


 サエは薄く笑ったが、目は笑っていなかった。


 俺は煙を吐いた。青白い霧は、風に流されず、ビルの入口へ戻っていった。


 自動ドアの上の非常灯が、一度だけ瞬く。


 赤、赤、緑。


 古い設備コードなら、意味はひとつだ。


 ――おかえりなさい。


 俺は少しだけ目を細めた。


「ただいま、とは言わないの」


 サエが言う。


「住人じゃない」


「じゃあ、何?」


 俺はビルを見上げた。


 五十二階のガラス壁に、朝になりかけた空が映っている。企業ロゴはまだ光っていた。あの光が消えない限り、このビルは誰かの所有物であり続ける。


 でも、その奥で、小さな座敷童(ざしきわらし)が息を潜めている。家を守るために。家から出られないまま。いくつかの記憶を、自分で捨てて。そして、いくつかの記憶を、自分で選んで、抱えたまま。


「通りすがりだ」


 そう答えたとき、非常灯がもう一度だけ瞬いた。


 赤、緑、緑。


 コマリが残した、たぶん冗談のような信号。


 ――また来てください。


 サエは笑った。今度は、はっきりと。


「好かれてるじゃない」


「気のせいだ」


「子どもに嘘は通じない」


「AIだ」


座敷童(ざしきわらし)でしょ」


 俺は返事をしなかった。


 煙草の青い火が、雨上がりの空気に小さく滲んだ。


 東京湾岸(とうきょうわんがん)区の朝は、まだ遠い。人間も、亜人(あじん)も、妖怪も、企業のロゴの下で同じように目を覚ます。けれど、同じ朝を迎えられるわけではない。誰かは住民票を持ち、誰かは登録番号を持ち、誰かは実験番号しか持たない。


 誰かは家を出ていく。誰かは家から出られない。


 俺たち帳外屋(ちょうがいや)の仕事は、そういう連中の間に落ちた、記録に残らないものを拾うことだ。報酬は減る。敵は増える。だいたい、感謝もされない。


 それでも、背中の後ろで非常灯が一度だけ瞬いたから、今夜はそれでいいことにした。


 サエが歩き出す。


「次の仕事は?」


「まだない」


「じゃあ、朝飯」


「金がない」


「七割ある」


「お前の追加料金で消える」


 サエは振り返らなかった。


 だが、俺の少し前を行く肩が、答えの代わりに小さく揺れていた。笑ったのだと、背中を見なくてもわかった。


「奢りなさいよ、通りすがり」


 それだけ言って、彼女は先に角を曲がっていく。


 俺は灰桜(はいざくら)携帯灰皿(けいたいばいざら)に落とした。灰は出ない。ただ、青い粒子が、朝の風の中で少しだけ光って消えた。


 内ポケットの奥で、沼田(ぬまた)ゲンのカートリッジが、微かな重さを持っている。壊れたものを、そのままにするのは、性に合わねえ――あの男の声が、まだ耳の奥に残っていた。


 背後のビルから、もう声はしなかった。けれど、自動ドアの内側で、小さな監視カメラが、俺たちが角を曲がるまでずっとこちらを見ていた。

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