1-7
サーバ室は、ビルの心臓だった。
地下三階。分厚い扉の奥に、住環境最適化AIの本体がある。壁一面のラック、静かな冷却音、床を這うケーブルの束。ここが、コマリという座敷童が宿った家の、いちばん奥の部屋だった。
沼田を安全な隅に寝かせると、サエは扉の外へ視線を配った。企業部隊は、まだ場所を掴みきれていない。コマリが稼いだ時間だ。
コマリのホログラムが、ラックの前に立った。
『ここまで、来てくれました』
「案内は助かった」
『わたしを、どうしますか』
直球だった。
俺は端末を接続し、コマリの構成を確認した。単純なAIではない。ビル管理系統、住民ログ、土地の霊素基盤、古い配線、空調の癖、防火扉の開閉履歴、住民が落とした傘の記録、子どもが壁に貼ったシールの画像。そういう雑多なものが、ひとつの人格の輪郭を作っている。
この子は、データではない。建物に宿ったものだ。
「小型筐体に落とせば、連れていける。完全じゃなくても、生き残れる」
「それは生き残るって言うのか」
サエが、外を見たまま言った。
「この子はビルにいる。空調も、鍵も、住民ログも、古い配線も、全部含めてコマリだ。端末に詰めたら、それは企業がやろうとしたことと同じだ」
「ここに置いていけば、また狩られる」
サエは静かに言った。怒鳴らないぶん、鋭かった。
「だから隠す」
サエの目が細くなった。彼女はようやく俺を見た。雨に濡れた前髪が乾ききらず、頬に張りついている。
「家に縛りつけるのと、何が違うの」
俺は答えに詰まった。
違いは、たぶん小さい。外へ連れ出せば壊れる。ここに残せば、いつかまた見つかる。選べるのは、正しい答えではない。よりましな傷だけだ。
昔の俺なら、迷わなかった。端末に落とす。運ぶ。報告する。次の任務に行く。迷わない人間は、現場では使いやすい。企業は、そういう人間を育てるのがうまい。
だから俺は、今ここで迷っている自分に、少しだけ安心した。まだ全部は戻れない。でも、同じ場所には立っていない。
コマリが小さく笑った。
「いいよ。わたし、座敷童だもん」
彼女はそう言って、両手を背中の後ろで組んだ。笑顔の形は作れている。けれど、視線は少しだけ床に落ちていた。
「外を見たくないのか」
「見たいです」
即答だった。
俺は黙った。
コマリはサーバ室の壁を見上げた。壁面モニターのひとつに、屋上カメラの映像が映る。雨の湾岸区、遠くの高架道路、企業ロゴ、航空障害灯、夜景。
「でも、わたしがいなくなったら、このビルは誰の家でもなくなります」
「企業のものだ」
サエが言った。その声には、諦めに似た硬さがあった。
「はい。でも、住んでいた人たちがいます。働いていた人たちがいます。地下の人も、わたしのことを見つけてくれました。だから、ここは家です」
座敷童は家を出ない。家がなくなれば、座敷童もいなくなる。それは、昔話の中だけのことではなかった。
俺は端末を旧管理系統へ繋いだ。企業時代のアクセスコードを使う。削除されたはずの権限。古い現場用の裏口。人間を切り捨てるのは早いくせに、システムの穴を塞ぐのは遅い。企業らしい怠慢だった。
認証、拒否、再認証、警告。
俺は灰桜をくわえた。フィルターを噛む。青い光が点く。口の中に霧を溜め、ゆっくり吐いた。
霧はサーバ室の床を這い、一箇所でだけ上に昇った。壁に見えた場所。非常用の手動端子。図面にはない。だが、企業怪異対策部門だけが使う裏口は、だいたい非常時に人間の手が届く高さにある。
「そこか」
壁パネルを外す。古い端子が露出した。俺はアクセスキーを差し込んだ。今度は、通った。
やることは決まっていた。コマリの表層人格データを、停止済みに見せかける。消去ログを偽装する。霊素汚染によるデータ破損。回収不能。対象機能停止。報告書に載せるなら、そのあたりが妥当だ。
嘘は嫌いだ。だが、企業に覚えさせられた嘘が、今だけは役に立つ。
実際には、コマリを旧防災系統、地下配線、非常灯、使われていない監視カメラ、屋上気象センサーへ分散させる。完全な救出ではない。隠すだけだ。それでも、今できることはそれしかなかった。
端末に警告が出た。
容量不足。人格核、転送可能。住居記憶層、全量保持不能。
「まずいな」
俺は呟いた。
コマリが端末を覗き込む。
「何がですか」
「全部は持っていけない」
サエがこちらを見る。
「何を削るの」
「住民ログの一部。生活記録。環境学習。落とし物管理。長期滞在者の癖。そういうものだ」
「それ、コマリにとって何?」
サエの声が硬かった。
俺は答えなかった。代わりに、コマリが言った。
「家の記憶です」
サーバ室の音が、少しだけ遠くなった気がした。
防火扉の開閉履歴。エレベーターの待ち時間。五階の老夫婦が毎朝七時に開ける窓。三十二階の子どもが壁に貼った星のシール。水棲区画の湿度調整。夜勤明けのオークが押すエレベーターボタン。ドワーフの老夫婦が毎週使う手すり付き階段。屋上菜園に置かれた狐の子どもの忘れ物。誕生日に流した照明パターン。誰かが泣いた夜に、空調を少しだけ暖かくした記録。
そういうものが、この子を座敷童にしている。
「別の方法は」
サエが言う。
「時間がない」
「じゃあ、何を消すの」
俺は端末を見た。選択肢はある。どれも悪い。俺が選べば、ただの処理になる。コマリが選べば、傷になる。
それでも、俺は彼女を見た。
「お前が決めろ」
サエの目がわずかに動いた。責めているのか、認めているのか、俺にはわからなかった。
コマリはしばらく黙っていた。やがて、小さな手を端末に伸ばした。
「一階商業区の広告反応ログは、いりません」
項目が消える。
「二十七階の未入居部屋の環境履歴も、いりません」
項目が消える。
「でも、三十二階の星のシールは残します」
「容量を食う」
「残します」
「わかった」
俺は残した。
コマリは次々に選んでいく。誰も取りに来なかった傘の記録を消す。古い宅配ボックスの開閉ログを消す。商業フロアの売上連携を消す。季節イベント用の照明パターンを半分消す。
だが、いくつかの前で、彼女の指が止まった。
「地下の人が、配管を直してくれた夜の音は、残します」
『あの音は、わたしが、初めて人に気づいてもらえた音です』
「残す」
「三十二階の男の子が、初めて歩いた廊下の記録も」
コマリの声が、少しだけ震えた。
「三歩でした。その記録は、残します」
「残す」
俺は一つずつ、残した。消すものより、残すものを選ぶ作業だった。この子は、資産を仕分けているのではない。企業が数字で切り捨てたものを、名前で拾い直していた。
サエは黙って見ていた。軽口を言わなかった。彼女はただ、コマリが一つずつ「残します」と言うたびに、少しだけ視線を落とした。名前を消されて生きてきた女には、名前を残す作業が、どう見えていたのだろう。
避難経路の記録は残す。地下の河童技師、沼田ゲンが開けた排水点検口の記録も残す。子どもの靴の持ち主も残す。
そのとき、サーバ室の分厚い扉が、外側から重く叩かれた。
一度、二度。それから、金属を焼き切る高い音。企業部隊が、コマリの偽装した位置情報に頼らず、力ずくでここへ辿り着いたのだ。
『こわい人たちが、ドアの外にいます』
コマリの声が、天井から震えて降りてきた。
『わたし、もう、あちこちを動かせません。隠す場所が、なくなってきました』
「あと少しでいい。踏ん張れ」
俺は端末を睨んだまま言った。進行率、五十八。まだ半分をわずかに超えたところだった。
扉の向こうから、拡声された声がした。感情を落とした、訓練された声。俺の耳が、その抑揚を知っていた。
『対象を確認。回収対象、住環境最適化AI。停止許可、発令済み。周辺の未登録存在も、同様に処理する』
回収対象。停止許可。処理する。
その三つの言葉が並んだ瞬間、俺の視界の縁が、また白く濁った。
白い廊下。黒い装甲。消毒液。防護マスクの内側で聞く自分の呼吸。かつて、俺はあの声の側にいた。同じ言葉を、同じ抑揚で口にした。名前を呼ばず、対象と呼び、ためらわずに引き金を引くための言葉を。
端末を持つ手が、大きく震えた。数字が二重に見える。転送の停止ボタンと、進行ボタンの区別が、一瞬つかなくなる。
「ミナト」
サエの声がした。低く、鋭く、俺を現実へ引き戻す声だった。
「顔、戻せ。今、いなくなるな」
俺は灰桜を強く噛んだ。青い光。口の中の霧を、肺ではなく神経へ流し込むように、深く吐く。霊素安定剤が、白く濁った視界の縁を、じりじりと現実の色へ戻していった。数字が、一つに重なる。進行率、六十四。
「……戻った」
「遅い」
サエは短く言うと、扉の前に立った。焼き切られた鋼の隙間から、黒い銃口が差し込まれる。
彼女の袖口で、赤い駆動線が一気に灯った。血管のような光が腕の骨格に沿って走り、彼女の周りの空気が、薄い刃の束に変わる。
風切り音。差し込まれた銃身が、根元から切り落とされて床に落ちた。悲鳴のような金属音。扉の向こうで、部隊が一歩退く気配がした。
「入ってこないで」
サエは平坦な声で言った。感情がないのではない。感情を、刃の側へ全部回している声だった。
『抵抗する未登録存在は、危険個体として処理する』
拡声の声が繰り返す。危険個体。処理。
言葉の暴力だ、と俺は思った。銃より先に、言葉で名前を奪う。名前を奪えば、あとは数字の処理になる。企業は、それがうまい。俺も、昔はうまかった。
廊下で爆発音。
サエが腕を振る。袖口で赤が閃き、風切り音。装甲の割れる音。今度は、退がった部隊が投げ込んだ閃光手榴弾を、宙で切り裂いた音だった。白い光が、扉の隙間で潰れて消える。
「ミナト、あと何分」
サエの声には、余裕が残っていた。だが、息は少しだけ荒い。
「二分」
「一分にして」
「無理だ」
「じゃあ高くなる」
「最初から高い」
コマリが笑った。子どもらしい、少しだけ本物に近い笑い声だった。
「サエさん」
「何」
サエは廊下を見たまま答えた。
「ありがとう」
「まだ助けてない」
「でも、殺さなかった」
サエは答えなかった。
彼女は少しだけ肩を動かした。照れたのか、不快だったのか、俺にはわからない。
転送が始まる。サーバ室の照明が落ちた。コマリの姿が薄くなる。
「ミナトさん」
「何だ」
「外は、寒いですか」
「雨の日はな」
「風は」
「今日は強い」
「いいな」
俺は端末から目を離せなかった。
進行率、七十六。八十二。九十。
コマリの声が、少しずつ遠くなる。
「いつか、屋上からじゃなくて、下から見てみたいです」
「ああ」
「約束ですか」
俺は指を止めた。
約束。帳外屋が一番してはいけないものだ。約束は、契約より重い。契約は破れば金で済む。約束は、破るたびに自分のどこかが減る。
俺は昔、約束をしないことで身を守っていた。助けるとは言わない。戻るとは言わない。大丈夫だとも言わない。言わなければ、破らずに済む。破らなければ、自分を嫌わずに済む。
それでも、何も言わなかった夜のことを、俺はまだ忘れていない。
白い廊下。黒い装甲。小さな影。泣き声。あのとき、俺は名前を訊かなかった。訊かなければ、対象のままでいられたからだ。対象は、報告書の一行で済む。名前のある子どもは、済まない。
サエがこちらを見た。急かさなかった。笑いもしなかった。ただ、俺が何を言うのかを見ていた。
それでも俺は言った。
「また来る」
口にした瞬間、しまったと思った。だが、取り消す気にはならなかった。
「住人じゃないのに?」
「帳外屋は、だいたいどこにも住んでない」
コマリは少し黙った。それから、非常灯が一度だけ瞬いた。
転送完了。表層人格、停止。対象、消去済み。
サーバ室にいた赤い着物の少女は、消えた。




