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港湾第六蔵置区は、夜になると、都市の裏側の顔をしていた。
昼の港は、清潔だ。企業ロゴを載せた無人トラックが、番号のついた荷を、決められた道で運ぶ。だが、この空箱の集積区だけは、その流れから外れていた。運ばれもせず、捨てられもせず、ただ積まれている。忘れられた荷の、墓場のような場所だった。
サエは、入口で、少し足を止めた。
「狭い」
「倉庫だからな」
「そういう狭さじゃない」
彼女はそれ以上、言わなかった。積み上がったコンテナの壁が通路をいくつも作り、その通路が、奥へ行くほど天井の光を吸って暗くなる。閉じた鉄の箱に、四方を囲まれる。密閉された空間は、サエがいちばん嫌うものだった。彼女の左手が一瞬、右の手首に触れて離れた。
「無理はするな」
「してない」
サエは短く言って、俺の後ろに続いた。足音は軽い。だが、呼吸は、いつもより浅かった。
「なあ」
俺は、前を向いたまま訊いた。
「怖いか」
「まさか」
即答だった。
「……ただ、この建物、嫌い。四角くて、閉じてて、中身がないふりをしてる。嘘つきの形をしてる」
「箱だからな」
「箱は、嫌い」
サエは、そう言ってから、少し間を置いた。
「入れられる側だったから」
俺は、答えなかった。答えないことにも、たぶん意味があった。
倉庫は、静かすぎた。
物のある倉庫は、こんなに静かにはならない。荷が湿気を吸い、木が軋み、どこかで何かが落ち着く音がする。だが、ここは違った。空の箱ばかりの倉庫は、音を吸う。俺たちの足音も、呼吸も、奥へ行くほど、綿に埋めたように消えていく。そのくせ、耳の奥で、何かがずっと鳴っている気がした。声になる前の、囁きのようなものが。空っぽの箱が、こんなにいっぱいに聞こえる場所を、俺は知らなかった。
奥へ進むほど、空気が変わった。埃と、湿気と、古い鉄の匂い。それに、別の何かが混じっている。霊素の、薄い甘さだ。だが、霊素廃液の毒々しさとは違う。もっと弱く、もっと生活の匂いに近い、霊素だった。
俺は灰桜をくわえ、火はつけず、口の中で霧を溜めた。青白い霧を、細く吐く。霊素安定剤は、場の歪みに反応する。
吐いた霧が、風もないのに、コンテナの列のほうへ、ゆっくりと流れた。
そして、空のはずの箱のあちこちで、弱い光が灯った。
人格反応の光だった。強くない。生活の消えかけた残り火のような、頼りない光。青でも赤でもない。くすんだ、体温のような色だった。ひとつの箱に、ひとつ。あるいは、いくつも。積み上がった空箱の、そのひとつひとつに、誰かがいた。
「うわ」
サエが低く言った。嫌悪ではなかった。もっと、痛みに近い声だった。
『いらっしゃい』
声がした。
天井から、というより、倉庫そのものから、聞こえた。無数の声が、重なっている。子どもの声、老人の声、男の声、女の声、怪異の声、それらが、ひとつの言葉を、少しずつずれて発している。合唱の、いちばん揃わない瞬間のような響きだった。
「倉ぼっこか」
『そう呼ばれることも、ある』
声が答えた。
『わたしは、この倉だ。長く、いろいろなものを預かってきた。荷を。忘れ物を。……捨てられた声を』
積み上がったコンテナの壁が、かすかに軋んだ。それが、この付喪神の、身じろぎらしかった。姿はない。倉庫そのものが、身体だった。
俺は、以前会った、別の付喪神を思い出した。旧行政サーバに宿った、古い老人。あれは、記録を"覚える"付喪神だった。忘れられたものすべてを、覚える器。──だが、この倉ぼっこは、少し違う。覚えるのではない。匿うのだ。消される声を、空箱の中に隠している。
『あんたたちは、消しに来た人じゃ、ないね』
「違う」
『だったら、ゆっくりしていくといい。……ここには、時間だけは、たっぷりある。取りに来る人の、いない時間が』
「取りに来る者は、いないのか」
俺が訊くと、倉庫がまた軋んだ。
『いない。……ここに預けられた声は、みんな、"もう要らない"と判を押された声だ。要らないと言われたものを、迎えに来る者はいない。だから、わたしが預かっている。取りに来なくても、いい。ただ、捨てられるのだけは、忍びない』
『荷は、いつか取りに来られる。だから、倉は待つ。……取りに来ない荷を待っているうちに、待つことと、匿うことの区別が、つかなくなった』
その言い方に、俺は、どこか覚えがあった。忘れられたものを覚え続ける、古いサーバの老人。家から出られないまま、住人を守る、小さな座敷童。忘れられた器は、みんな、取りに来ない誰かを、待っている。
『ところで』
倉ぼっこが言った。無数の声が、少しだけ揃った。
『あんたたち、荷は、あるかい』
「荷」
『倉だからね。……何か預けていくなら、札を書いて、預かり証を出す。それが、順序だ』
俺は、返事に困った。この付喪神は、本気で言っているらしかった。廃棄された人格を何百と抱えたまま、それでも、倉庫の受付の作法を、律儀に守ろうとしている。
「あんた、預かってる声には、預かり証を出したのか」
『出せなかった』
声が、少し低くなった。
『名前がないと、札が書けない。……ここに来る子は、たいてい、名前を、先に取られている。だから、札のない荷ばかりだ。倉の恥だよ』
札のない荷。名前を先に取られた者たち。──預かり証の出せなかった荷は、倉のほうが、覚えているしかない。




