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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第九話 倉ぼっこは空箱に眠る

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9-3

 港湾第六蔵置区こうわんだいろくぞうちくは、夜になると、都市の裏側の顔をしていた。


 昼の港は、清潔だ。企業ロゴを載せた無人トラックが、番号のついた荷を、決められた道で運ぶ。だが、この空箱の集積区だけは、その流れから外れていた。運ばれもせず、捨てられもせず、ただ積まれている。忘れられた荷の、墓場のような場所だった。


 サエは、入口で、少し足を止めた。


「狭い」


「倉庫だからな」


「そういう狭さじゃない」


 彼女はそれ以上、言わなかった。積み上がったコンテナの壁が通路をいくつも作り、その通路が、奥へ行くほど天井の光を吸って暗くなる。閉じた鉄の箱に、四方を囲まれる。密閉された空間は、サエがいちばん嫌うものだった。彼女の左手が一瞬、右の手首に触れて離れた。


「無理はするな」


「してない」


 サエは短く言って、俺の後ろに続いた。足音は軽い。だが、呼吸は、いつもより浅かった。


「なあ」


 俺は、前を向いたまま訊いた。


「怖いか」


「まさか」


 即答だった。


「……ただ、この建物、嫌い。四角くて、閉じてて、中身がないふりをしてる。嘘つきの形をしてる」


「箱だからな」


「箱は、嫌い」


 サエは、そう言ってから、少し間を置いた。


「入れられる側だったから」


 俺は、答えなかった。答えないことにも、たぶん意味があった。


 倉庫は、静かすぎた。


 物のある倉庫は、こんなに静かにはならない。荷が湿気を吸い、木が軋み、どこかで何かが落ち着く音がする。だが、ここは違った。空の箱ばかりの倉庫は、音を吸う。俺たちの足音も、呼吸も、奥へ行くほど、綿に埋めたように消えていく。そのくせ、耳の奥で、何かがずっと鳴っている気がした。声になる前の、囁きのようなものが。空っぽの箱が、こんなにいっぱいに聞こえる場所を、俺は知らなかった。


 奥へ進むほど、空気が変わった。埃と、湿気と、古い鉄の匂い。それに、別の何かが混じっている。霊素(れいそ)の、薄い甘さだ。だが、霊素(れいそ)廃液の毒々しさとは違う。もっと弱く、もっと生活の匂いに近い、霊素(れいそ)だった。


 俺は灰桜(はいざくら)をくわえ、火はつけず、口の中で霧を溜めた。青白い霧を、細く吐く。霊素(れいそ)安定剤は、場の歪みに反応する。


 吐いた霧が、風もないのに、コンテナの列のほうへ、ゆっくりと流れた。


 そして、空のはずの箱のあちこちで、弱い光が灯った。


 人格反応の光だった。強くない。生活の消えかけた残り火のような、頼りない光。青でも赤でもない。くすんだ、体温のような色だった。ひとつの箱に、ひとつ。あるいは、いくつも。積み上がった空箱の、そのひとつひとつに、誰かがいた。


「うわ」


 サエが低く言った。嫌悪ではなかった。もっと、痛みに近い声だった。


『いらっしゃい』


 声がした。


 天井から、というより、倉庫そのものから、聞こえた。無数の声が、重なっている。子どもの声、老人の声、男の声、女の声、怪異(かいい)の声、それらが、ひとつの言葉を、少しずつずれて発している。合唱の、いちばん揃わない瞬間のような響きだった。


(くら)ぼっこか」


『そう呼ばれることも、ある』


 声が答えた。


『わたしは、この倉だ。長く、いろいろなものを預かってきた。荷を。忘れ物を。……捨てられた声を』


 積み上がったコンテナの壁が、かすかに軋んだ。それが、この付喪神(つくもがみ)の、身じろぎらしかった。姿はない。倉庫そのものが、身体だった。


 俺は、以前会った、別の付喪神(つくもがみ)を思い出した。旧行政サーバに宿った、古い老人。あれは、記録を"覚える"付喪神(つくもがみ)だった。忘れられたものすべてを、覚える器。──だが、この(くら)ぼっこは、少し違う。覚えるのではない。匿うのだ。消される声を、空箱の中に隠している。


『あんたたちは、消しに来た人じゃ、ないね』


「違う」


『だったら、ゆっくりしていくといい。……ここには、時間だけは、たっぷりある。取りに来る人の、いない時間が』


「取りに来る者は、いないのか」


 俺が訊くと、倉庫がまた軋んだ。


『いない。……ここに預けられた声は、みんな、"もう要らない"と判を押された声だ。要らないと言われたものを、迎えに来る者はいない。だから、わたしが預かっている。取りに来なくても、いい。ただ、捨てられるのだけは、忍びない』


『荷は、いつか取りに来られる。だから、倉は待つ。……取りに来ない荷を待っているうちに、待つことと、匿うことの区別が、つかなくなった』


 その言い方に、俺は、どこか覚えがあった。忘れられたものを覚え続ける、古いサーバの老人。家から出られないまま、住人を守る、小さな座敷童(ざしきわらし)。忘れられた器は、みんな、取りに来ない誰かを、待っている。


『ところで』


 (くら)ぼっこが言った。無数の声が、少しだけ揃った。


『あんたたち、荷は、あるかい』


「荷」


『倉だからね。……何か預けていくなら、札を書いて、預かり証を出す。それが、順序だ』


 俺は、返事に困った。この付喪神(つくもがみ)は、本気で言っているらしかった。廃棄された人格を何百と抱えたまま、それでも、倉庫の受付の作法を、律儀に守ろうとしている。


「あんた、預かってる声には、預かり証を出したのか」


『出せなかった』


 声が、少し低くなった。


『名前がないと、札が書けない。……ここに来る子は、たいてい、名前を、先に取られている。だから、札のない荷ばかりだ。倉の恥だよ』


 札のない荷。名前を先に取られた者たち。──預かり証の出せなかった荷は、倉のほうが、覚えているしかない。

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