9-2
港湾の空箱のことを、俺は狐に訊いた。
旧市街の地下喫茶《尻尾》は、昼でも夜のようだった。地下へ降りるほど、匂いの層が増える。焦げた豆、こぼれた酒、湿ったコンクリート、霊煙の甘さ。狐は、頼んでもいない濃い茶を、俺の前に置いた。金の指輪が、ポットを傾けるたび、ちゃらりと鳴る。
「第六蔵置区の、声の棚ね」
狐は、金色の縦瞳を細めた。
「あそこはね。古い倉庫だ。港がまだ人の手で回ってた頃からある。今は、企業が空箱の集積所に使ってる。……で、その空箱から、人格反応が出る。中身は、ない。なのに、反応だけがある」
「何が宿ってる」
「倉ぼっこ、って呼ぶ連中がいる」
狐は茶を啜った。核心に触れると、この男は一瞬、手が止まる。今、止まった。
「付喪神の一種だよ。古い倉に、長く物を出し入れしてると、宿ることがある。……ただ、あそこの倉ぼっこは、少し変わってる。物じゃなくて、人を匿ってるんだ」
「人を」
「正確には、人だったものを。企業に廃棄された連中の、バックアップ人格さ。廃棄処分にされた怪異市民。失敗した人工怪異。使い終わった広告人格。壊れた戦闘個体。実験で使い潰された被験者。……そういう、"もう要らない"と判を押された声を、倉ぼっこは、空箱の中にしまってる」
俺は、ミサキの弟のことを思った。失敗作として記録ごと消された、トウマという子。
「なぜ、匿う」
「さあね」
狐は、金色の目で笑った。
「付喪神に理由を訊くのは、野暮ってもんだ。……ただ、あの古い倉庫は、長いあいだ、いろんなものを預かってきた。荷を。人を。忘れ物を。預かったものを、勝手に捨てない。それが、倉の性分なんだろう」
「企業は、それを知ってるのか」
「知ってる。で、"不具合"だと思ってる」
狐は、金の指を一本、立てた。
「考えてもみな。企業は、手間と金をかけて、あの連中を"廃棄"した。廃棄ってのは、ただ捨てるんじゃない。記録ごと消して、最初からいなかったことにする。そこまでやって、やっと帳簿の上で、片がつく」
狐は、茶を啜った。
「ところが、その"いなかったはずの声"が、空箱の底で、まだ残ってる。帳簿の上じゃ、とっくに存在しないものが、現場にだけ、在る。……システムにとっちゃ、それは、罪でも祟りでもない。ただの、整合性のエラーだ。消したはずの数が、合わない。だから、合わせに来る」
「合わせる、ってのは」
「上書きする。もう一度、今度こそ完全に、いなかったことにする。……帳簿を、きれいにするためだけに、な。空箱の中で誰かがまだ喋ってようが──システムは、そんな欄は見ちゃいない。"保管人格整理"って書式は、そういうものだよ」
俺は、茶の湯気の向こうで、目を細めた。
「札の頭は」
「IX。──労働のときと、同じ書式だよ。今度は、保管人格だ。IX-ST」
IX。またあれだ。
住居。記録。道路。労働。人格。地下。橋。片づける対象が違うだけで、白さはいつも同じだった。そして今度は、廃棄された者たちの、最後の声だった。
「いつ、消す」
「三日のうちには、と聞いた。空箱の中身を、まとめて上書きする。……上書きされたら、倉ぼっこが匿ってた声は、全部、消える。今度こそ、本当に、いなかったことになる」
三日。刻限が、また机の上に置かれた。
「情報料は」
俺が訊くと、狐は金の指輪を鳴らした。
「今日はいらない。……そのかわり、一つだけ、教えてくれ。あんたが、あの倉庫で、何を見たか。全部でいい」
狐の目が、めずらしく、笑っていなかった。
「あそこはね、僕みたいな商売の人間でも、あんまり近づかない。……古い倉には、預けたきり取りに戻らなかったものが多すぎる。何が眠ってるか、わからない。だから、先物買いだよ。あんたが見てきたら、教えてくれ」
狐は、そこで、めずらしく声を落とした。
「一つ、忠告だ。……あの倉は、底が深い。企業が消したがってるのは、空箱の声だ。だが、その声のもっと下に何があるかは、僕も知らない。誰も知らない。──だからね、久我くん。拾うものだけ拾って、さっさと出るんだ。底を覗くな。覗いたら、覗き返される」
軽薄な男が笑わずに言う忠告は、たいてい当たる。俺は、それを覚えておくことにした。……結局その夜、俺は、その忠告を守れなかったのだが。
中身の見えない借用書に、また一枚、判を押した。だが、狐がその値をつけたことのほうが、俺には引っかかった。この軽薄な情報屋が、値切らずに、ただ「見てきてくれ」と言う。そういう夜は、たいてい、高くつく。




