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その倉庫は、空っぽのはずのコンテナから、名前を呼んだ。
ミサキは、夜間検品の帰りだった。港湾第六蔵置区。人のいない時間の、人のいない区画だ。無人搬送機が決まった軌道で荷を運び、天井のクレーンが、誰も見ていない鉄の箱を吊り上げては下ろす。照明は、人ではなく機械のために点いている。白く、均一で、影のない光だった。
その区画のいちばん奥に、封じられたコンテナの列がある。中身なし、と札の貼られた空箱ばかりを、企業がなぜか一箇所へ集めている。開ける予定も運び出す予定もない。ただ積まれて、忘れられている。ミサキはその前をいつも足早に通る。夜勤の連中は、あの列を「声の棚」と呼んでいた。理由は誰も、はっきりとは言わなかった。
ミサキはその理由をなんとなく知っていた。夜勤を三年もやれば、耳が慣れる。機械の音に。人のいない広さに。そして、ときどき、その広さの底から、聞こえてはいけないものが聞こえることに。同僚は誰も口にしない。口にすれば、次の夜からその音が自分にも聞こえるようになる気がするからだ。だから、みんな足早に通る。聞かなかったことにして。ミサキもそうしてきた。三年、そうしてきた。
その夜、彼女は足を止めた。
空のはずのコンテナの鉄の壁の向こうから、声がした。細い、掠れた、子どもの声だった。
『ねえちゃん』
ミサキの足が床に張りついた。
聞き間違いだと思おうとした。機械の軋み。配管の鳴り。夜勤の耳は、疲れると、聞きたい音を作る。彼女はそう自分に言い聞かせて、もう一歩、踏み出そうとした。
『ねえちゃん。まだ、いる?』
今度は、間違えようがなかった。
その呼び方を知っている者は、もうこの世に一人もいないはずだった。弟は、行政の記録の上では、最初から生まれていない。生まれていないのだから、死んでもいない。誰も探さない。探す理由がどこにも残っていないからだ。覚えているのは、ミサキだけだった。
彼女はコンテナに手を当てた。鉄は冷たい。中で何かが動く気配はない。センサーの表示灯だけが、扉の脇で、青と桃と緑に順に切り替わっている。異常なし。中身なし。空。
だが、その空の箱の中で、確かに弟が息をしていた。
*
ミサキが俺の事務所に来たのは、翌日の夕方だった。
雨は降っていない。それでも窓の外の東京湾岸区は、湿った灰色をしていた。港のほうから、潮と鉄の匂いが風に混じって上がってくる。
彼女は痩せた若い女だった。ヒューマンに見える。だが、こちらを見る目の奥に、少しだけ、夜のものが混じっている。薄い怪異の血筋だろう。夜勤の作業着の上に色の褪せた上着を羽織り、指先が、寒くもないのに、かすかに震えていた。
俺は、その震えに覚えがあった。自分の手が同じ震え方をする。だから、指摘しなかった。
「帳外屋さん、ですよね」
「そう呼ばれてます」
「弟の声が、聞こえるんです」
前置きも名乗りもなかった。ずっと抱えていたものを、ようやく置ける場所を見つけた者の言い方だった。
ソファの端で、サエが薄目を開けた。灰色の目が、ミサキの手の震えを一度だけ見て、また閉じる。
「座ってください」
俺が言うと、ミサキは浅く腰かけた。膝の上で、両手を握っている。
「弟は、トウマといいます」
彼女はそう切り出した。
「昔、企業に連れていかれました。小さいころです。"素質がある"って言われて。怪異の血が濃く出る子だ、と。……人工の怪異を作る実験の、材料にされたんです」
俺は灰桜を一本くわえた。火はつけない。フィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点いた。
人工の怪異。以前、俺は似たものに会っている。企業が資産価値のために作ろうとした、座敷童の少女。うまくいったのは、あの子だけだった。ほかの子は、失敗作として、地下の培養槽から下水本管へ流された。名前をつけ終わる前に止まった子もいた。
「うまく、いかなかったんですね」
「はい」
ミサキの声が低くなった。
「失敗作は、処分されます。……でも、ただ処分するだけじゃなかった。あの子は、記録ごと消されました。生まれた記録も、わたしの弟だった記録も、全部。──今、行政の帳簿に、トウマなんて子は、最初からいないんです」
「あんたは、独りっ子になった」
「書類の上では」
ミサキは俯いた。
「でも、わたしは覚えてます。あの子の声も、寝るときに握ってきた手の力も、笑うときに口を隠す癖も。……覚えてるのは、わたしだけです。だから、わたしが忘れたら、あの子は、本当に、いなかったことになる」
俺は、その言葉を、前にも聞いた気がした。
いつだったか、ビルに宿った小さな座敷童が、同じことを言った。覚えている人がいないと、その人は、ここに住んでいなかったことになる。住んでいたのに、住んでいなかったことになるのは、こわい、と。
ミサキは、上着の内ポケットから、小さなものを出した。手のひらに載るほどの折り紙だった。何度も畳み直したのか、紙は柔らかく毛羽立ち、角が丸くなっている。舟の形をしていた。ずいぶん不格好な舟だった。
「あの子が、折ったんです。連れていかれる前の日に。……水に浮かべたいって言ってました。でも、次の日に迎えが来て。それきり、浮かべられなかった」
彼女は、その紙の舟を指の腹でそっと撫でた。壊さないように。
「これだけ、残ったんです。あの子がいた証拠。……でも、これも、ただの紙です。誰かに見せても、"よくできた折り紙ですね"で終わる。トウマがいた証明には、なりません。証明できるのは、わたしの記憶だけ。……記憶は、書類になりません」
俺は、その舟を見た。いつだったか会った、水路の技師のことを思った。あの男は、魚のいない川に持っていく釣り道具まで直していた。壊れたものを放っておけない手だった。この紙の舟も、浮かべられないまま、姉の手の中で、何度も畳み直されてきたのだろう。
「声は、どこで」
「港湾第六蔵置区。空のコンテナの列です。夜勤の連中が、"声の棚"って呼んでる場所です。……開けても、何もない。センサーにも、中身なし、って出る。でも、声だけがする」
サエが目を開けた。
「空の箱から、声」
「はい」
「気味が悪い」
サエはそう言った。だが、その声に、ふだんの棘はなかった。彼女は、こういう話を、少し違う聞き方をする。作り変えられた側の女は、消された者の声に、身内のような耳を向ける。
「弟の声を、聞いてどうする」
俺は訊いた。意地の悪い訊き方だったかもしれない。
「連れて帰れると、思ってるのか」
ミサキは首を横に振った。
「思ってません。……あの子は、もう、生きてないんです。それは、わかってる。でも、声だけが、まだ、あそこにいる。だったら、せめて、まだいるのかどうかだけ、確かめたい。……それだけです」
救ってくれ、とは言わなかった。取り戻してくれ、とも。ただ、まだいるのかどうか。それだけを確かめたい、と。
この街で、いちばん多い依頼の形だった。全部は望まない。ひとつだけ。
俺は灰桜を指で挟んだ。いつだったか受け取った、差出人不明の一行が、頭の隅で光った。橋は、片づきました。次は、声の出ない者たちです。あの一行が言っていたのは、たぶんこの夜のことだった。
「受ける」
俺は言った。
ソファのほうで、紙を破る音がした。
サエが、いつのまにか手書きの請求書を書いていた。彼女はそれを、ミサキの前の机に、すっと滑らせた。
「基本料。それと、追加料金」
「サエ」
「深夜の港。密閉。空箱。……精神的苦痛費が乗るの」
ミサキは、その紙を見て、それから、膝の上で握った自分の手を見た。夜勤の作業着の袖口が、擦り切れていた。
「……あの、これ、分割でも」
「いい」
サエは、請求書をひっくり返した。裏は、白紙だった。
「そっちに、あの子の名前を書いといて。フルネームで。……こっちの控えに、残るから」
ミサキが、顔を上げた。
サエは、もう窓の外を見ていた。表情は、変わっていない。
何の効力もない紙だ。だが、それを書いた瞬間から、この街のどこかに、その名前が一枚だけ増える。




