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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第八話 トロールは橋を渡れない

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8-7

 橋は正式に、閉鎖された。


 新しい安全規格は、是正済みだった。告知期間も、分類根拠も、非の打ち所がなかった。監査は対象外とした。報道は記事にならなかった。誰も、法を破っていない。誰も、手を汚していない。ただ、大きな者たちが、いちばん短い橋を、失っただけだ。


 ヨナの、送迎ドライバーの資格は、停止されたままになった。担当路線が、消えたからだ。彼女は、街から追い出されたわけではない。登録は残っている。ただ、いちばん通いたい場所へ、通えなくなった。仕事を失い、黄色い回転灯を回す朝も、なくなった。柵のない檻の中で、彼女は、まだ、この街の住人だった。


 完全な敗北だった。この街の敗北は、たぶん、こういう形をしている。血も出ない。悲鳴もない。ただ、渡れる場所が、静かに、ひとつ、なくなる。


 だが。


 あの朝、橋を渡った者たちは、向こう側にいた。今日も、明日も、向こう側で暮らしていく。ヨナが自分の全部を一度に使って支えた数分のあいだに、渡り切った者たちだ。彼らは、渡った。それはもう、企業の書式にも消せない。


 あのオークの母親も、兄妹を連れて渡った側にいた。夜勤に移らずに済むかは、わからない。橋は、明日からまた閉じている。だが、あの朝の一回だけは、母親はいつもの時間に子どもを送れた。たった一回。それでも、母親の顔は、俺が訪ねたときより、ほんの少しだけ軽くなっていた。


 そして、俺の手元には、一枚あった。


 閉じる橋を、一人のトロールが、加減なく支える映像。是正済みの綺麗な書式が、決して書かないものだ。今は、何の力もない一枚だ。監査は、受け取らない。報道は、記事にしない。


 俺はそれを、古椿(ふるつばき)の棚へ送った。消えないところへ。


 ――古椿(ふるつばき)。もう一枚、預ける。今は効かない。


 返事は短かった。


 ――棚は、広い。いくらでも、置いておけ。効く日まで、な。


 効く日まで。俺は、その言葉を、しばらく噛んでいた。今日は、負けた。明日も、たぶん、負ける。だが、消えないところに、記録が、一枚ずつ溜まっていく。いつか、それが、束になる日が、来るかもしれない。来ないかもしれない。それでも、溜める。溜めることしか、できないなら、溜める。


 その夜、ヨナが、事務所に来た。報酬を、払いに来たのだ。負けた仕事の、報酬を。


「受け取れない」


 俺が言うと、ヨナは、首を振った。


「渡してくれ、と頼んだのは、私です。橋は、閉じた。でも、あの朝、六人は、向こうへ行けた。(ごう)も。……それは、あなたたちが、いたからです」


 彼女は、皺の寄った封筒を、机に置いた。それから、少しだけ笑った。作り物ではない、疲れた笑いだった。


「私、初めて、数えなかったんです」


「知ってる。見てた」


「三十何年、加減して生きてきて。……初めて、全部、使った。橋を、支えるのに。……こんな使い方、していいなんて、思ってなかった」


 彼女は、自分の大きな手を、見た。全力を出しきって、まだ、少し震えている手を。


「大きくて、よかったと、初めて思いました。……たった一回だけど」


 俺は何も言わなかった。慰めは、この女には要らない。ただ、頷いた。


 ヨナが帰ったあと、サエが、ぽつりと言った。


「あの子、(ごう)。渡った側で、待ってるかな。ヨナのこと」


「たぶんな」


「渡れなかった側に、大事な人がいるって、どんな気分だろ」


 サエは、窓の外の閉じた橋を見て、それきり、何も言わなかった。渡れなかった側に残された者の気分なら、この女も、たぶん知っている。


 俺は灰桜(はいざくら)に火をつけた。


 負けた。書式で、負けた。俺の得意なやり方は、全部、机の上で、綺麗に突き返された。告発では、規格化は止まらない。古椿(ふるつばき)の言った通りだった。書式を殴っても、向こうは、もっと綺麗な書式にして押し返してくる。


 告発の、外へ出るしかない。整理の、内側へ。


 その言葉が、また、喉の奥に引っかかった。今度は、聞き流さなかった。


 整理の内側。俺には、その内側へ入る鍵が、一つ、ある。地下で見つけた、俺自身の、死んだ名前。都市が保守員として使役していた、俺の半分。あれは、傷であり、鍵でもある、と古椿(ふるつばき)は言った。塞ぐな、とも。


 書式では勝てない。なら、いつか、あの穴を、使うしかないのかもしれない。俺を殺した仕組みの内側から。


 まだ、決めたわけじゃない。だが、今夜、その考えは、初めて、はっきりと形になった。負けが、次の賭けの形を作っていた。


 書式で勝てる相手なら、俺は机の上で戦えばいい。だが、あの機械は、書式をいくらでも綺麗にできる。ならば、綺麗にできない場所から殴るしかない。記録に残らない場所。誰も見ていない場所。都市が自分の死体をこっそり使っている、そのいちばん奥から。


 嫌な考えだった。俺を殺した仕組みの内側へ、自分から戻るということだ。だが、今夜の負けが、その嫌な考えを、少しずつ、必要な考えに変えていた。


 端末が震えた。差出人不明。件名なし。本文は一行だった。


 ――橋は、片づきました。次は、声の出ない者たちです。


 俺はその一行を、しばらく見ていた。


 声の出ない者たち。どこかの無人倉庫にでも、しまわれた誰かのことだろうか。俺にはまだ、わからない。ただ、片づける手は、止まらない。橋の次に、もう、次を見ている。


 窓の外で、第九(だいきゅう)橋の、黄色くない灯りが、閉じたゲートを、冷たく照らしていた。ヨナの回転灯とは、似ても似つかない、企業の白い光だった。


 その向こう側で、渡った子どもたちが眠っている。こちら側で、渡れなかった女が、大きな手を、持て余している。


 ヨナは明日の朝、送迎車の鍵を回さない。黄色い回転灯は、もう回らない。だが、あの朝、彼女が加減なく支えた数分を、渡った者たちは忘れないだろう。(ごう)も、忘れないだろう。大きくても、いいから来い、と叫んだ声を。


 いつか、(ごう)が大きくなって、同じ橋の前に立つ日が来たとき。あの声を思い出せるなら。それは、今夜の負けの中に、確かに残った、一粒だった。


 橋は渡るためにある。


 だがこの街は、渡らせないために、橋を、閉じる。


 俺は煙を吐いた。青白い霧が、閉じた橋のほうへ流れて、消えた。

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