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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第八話 トロールは橋を渡れない

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8-6

 翌朝、第九(だいきゅう)橋の手前には、思ったより多くの人が集まっていた。


 ヨナが街区の連中に声をかけたわけではない。だが、渡れなくなった者は、ヨナだけではない。大きい者、重い者、体を機械で補った者。渡れる最後の朝を聞きつけて、静かに、橋の手前に立っていた。子どもを連れた者もいた。


 彼らは騒がなかった。大声を出せば、危険だと言われる。それを、全員が、知っていた。ただ、黙って、橋の向こう側を、見ていた。届かないと知っている者の沈黙は、悲鳴より重い。


 橋のゲートは、大型の重量バリアだった。上から降りてくる、分厚い金属の板。規格外の車両を物理的に止めるための、最後の壁だ。今朝、〇時をもって、それは、完全閉鎖の手順に入っていた。板が、ゆっくりと降り始めている。あと数分で、地面に着く。着けば、二度と、上がらない。


 俺は灰桜(はいざくら)をくわえ、火をつけずに口の中に霧を溜めた。青白い霧を、ゲートのほうへ、細く吐く。霊素(れいそ)安定剤は、場の歪みに反応する。降りてくる板の駆動の癖が、煙の乱れで見えた。


御堂(みどう)さん」


 俺は通信に言った。橋のたもとの古い配送バンの中で、道路屋のエルフが、六機のドローンに神経を分けている。


「制御盤の、緊急停止は」


『企業が握ってる。完全には止められん』


「一部でいい」


『……降下を、遅らせるだけなら。数秒だ』


「数秒でいい」


 御堂(みどう)の指が動く。橋のたもとの古い保守盤に、二号のアンテナが噛みつく。降りてくる板が、一瞬、ためらうように速度を落とした。


 数秒。それが、御堂(みどう)に稼げる全部だった。


 その数秒を、誰が使うか。


 ヨナが前に出た。


 彼女は、降りてくる金属の板の下に体を入れた。両手を上げ、板の底面を受け止める。骨格補強(こっかくほきょう)の腕の継ぎ目が、軋んだ。板は重い。規格外の車両を止めるための重さだ。ヨナの膝が、沈む。


 そして、俺は、初めて見た。


 ヨナが数えないのを。


 子どもに触れる前にいつも三つ数える女だった。ドアを閉めるのも、手を握るのも、三つ数えて、力を殺してから。三十何年、自分の力を、加減し続けてきた女だった。


 その女が今、数えなかった。


 一つも、数えなかった。加減を、しなかった。生まれてから初めて、彼女は、自分の力の全部を、一度に使った。殺してきた力を、全部、腕に通した。骨格補強(こっかくほきょう)が、限界の音を立てる。板が、止まる。彼女の頭の上で、規格外の重量バリアが、一人のトロールの両腕に受け止められて、止まっていた。


 三十何年、この街は、ヨナに加減を教え続けた。お前の力は危ない。お前の体は迷惑だ。小さくしていろ。削っていろ。押し込んでいろ。ヨナは、その全部を飲み込んで生きてきた。自分の力を、恥じるように。


 その力が今、一人分の重さも通さない橋の板を、押し上げている。恥じてきた力で、渡れない者たちを渡している。彼女が生まれてから初めて、その大きさが、誰かの役に立っていた。加減しない、そのままの大きさが。


「渡れ!」


 ヨナが叫んだ。


 初めて聞く、大きな声だった。加減の、ない声だった。


 人々が動いた。


 時間がなかった。


『あと、三秒』


 通信で、御堂(みどう)の声。橋のたもとで、二号が保守盤に噛みついて、降下を遅らせている。だが、それも限界だった。企業の制御が、御堂(みどう)の妨害を押し返してくる。板が、また降り始めた。ヨナの腕の上で、重量が増す。


『二秒』


 ヨナの膝が、さらに沈んだ。骨格補強(こっかくほきょう)の継ぎ目から、細い光が漏れる。限界を越えた金属が、悲鳴を上げていた。それでも彼女は、腕を下ろさなかった。腕を下ろせば、まだ渡っていない者の上に、板が落ちる。


 オークの一家が、板の下を身を屈めて抜ける。あの母親が、兄妹の手を引いて走った。骨格補強(こっかくほきょう)の老人が、若い者に背を支えられて渡る。工業島の作業員が、仲間を先に行かせて、自分は最後尾に回る。ヨナの腕が作った、わずかな隙間を、一人、また一人と、向こう側へ。


 誰も、ヨナに礼を言わなかった。言う時間がなかった。ただ、通り過ぎるとき、大きな手が、ヨナの腕に、一瞬だけ触れていった。ありがとう、の代わりだった。それで、十分だった。


 骨格補強(こっかくほきょう)の老人が、渡り際に一度だけ足を止めた。若い頃、この橋を何万回と渡ったと言っていた老人だ。彼は、閉じかけた橋を支えるヨナを見て、何か言おうとした。だが、言葉は出なかった。ただ、深く頭を下げた。それから、若い者に背を押されて、向こうへ渡る。渡った先で、老人は、もう一度振り返った。こちら側に残るヨナを、長く見ていた。


 俺は走らなかった。代わりに、端末を構えた。


 ヨナが板を支えている。全力で、加減なく、自分の全部で。この光景を、俺は、記録した。橋の名前。時刻。降りてくるゲート。それを一人で支えるトロールの女。その下を渡っていく大きな者たち。是正済みの、綺麗な書式の、その裏側で、実際に、何が起きているか。書式はこれを書かない。だから、俺が、書く。机の上では負けた。だがこの一枚だけは、向こうの書式では、上書きできない。


久我(くが)さん!」


 ヨナの声。腕が震えている。限界だった。


 まだ、渡り切っていない者がいた。


 (ごう)だった。


 いちばん後ろにいた、大きなトロールの子。体が大きいぶん、板の下の隙間を、くぐりにくい。ためらって、立ちすくんでいた。大きいと、迷惑をかける。この子は、それを知っていた。だから、最後まで、譲っていた。


(ごう)!」


 ヨナが叫んだ。


「来い! 大きくてもいいから! 今だけは大きいまま、来い!」


 (ごう)が走った。


 板の下を、その大きな体でくぐる。角が、板の底を擦った。ヨナが、片腕をさらに高く上げた。子ども一人分の隙間を作るために。もう片方の腕だけで、規格外の重量を支える。骨格補強(こっかくほきょう)が、悲鳴を上げた。


 (ごう)が抜けた。


 向こう側へ、転がり込む。渡った。


 その瞬間、ヨナの腕が、限界を、越えた。


 彼女は板の下から、後ろへ、飛び退いた。支えきれなくなった重量バリアが彼女のいた場所へ、落ちる。地面を叩く、重い音。土煙。そして、金属の板は、地面に、着いた。


 着いて、二度と、上がらなかった。


 橋は閉じた。


 向こう側に、渡った人々がいた。子どもたちがいた。(ごう)がいた。


 こちら側に、ヨナが、残った。


 膝をつき、肩で息をして、両腕を、だらりと下げて。全力を出しきった腕は、もう、震えることもできないようだった。


 彼女は閉じた橋の、こちら側にいた。渡した者たちの、向こう側には、行けなかった。


 御堂(みどう)の配送バンが、静かに、たもとから離れていく。窓が少し下がり、道路屋のエルフが、閉じた橋を、一度だけ見た。


「橋は」


 御堂(みどう)は低く言った。


「渡るためにある」


 それ以上は、言わなかった。それ以上は、たぶん、誰にもできなかった。

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