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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第八話 トロールは橋を渡れない

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57/62

8-3

 俺は動いた。


 古椿(ふるつばき)の棚から、地下で抜いた大元の案件を一枚、正規の形に整えた。橋梁通行安全規格の元になった、交通系整理の白札。その承認経路に、手続き上の不備がある。発効前の告知期間が、規定より短い。体格・重量による通行制限が、亜人類(あじんるい)骨格補強(こっかくほきょう)義体を一律に危険物と扱っている点も、差別禁止の条項に触れる。


 それを、三つの窓口に、同時に流した。都市交通監査室。亜人権利団体。そして、この手の話を、しつこく追う報道の一つ。


 地下のときと、同じやり方だ。裁判で勝つための証拠じゃない。相手に、揉み消しの手間をかけさせるための札だ。


 半日で、手応えがあった。


 都市交通監査室から、告知期間を確認したいと照会が入った。事務的な文面だが、監査が動くのは、それだけで大きい。亜人権利団体は、骨格補強(こっかくほきょう)義体を一律に危険物扱いするのは差別だと、声明の準備を始めた。報道の一つは、閉じかけたゲートの前に並ぶ、渡れない者たちを、写真に収めていった。


 三つの窓口が、同じ方を向き始めていた。俺は久しぶりに、歯車が噛み合う音を聞いた気がした。監査、権利団体、報道。三つ揃えば、企業もそう簡単には押し切れない。地下で一枚流したときより、確かな手応えだった。


 ヨナに、連絡した。


「動いてる。この分なら、橋の閉鎖は、いったん止まる」


『……ほんとうですか』


「確実じゃない。だが悪くない」


 電話の向こうで、ヨナが、小さく息を吐いた。安堵の息だった。後ろで、子どもの声がした。(ごう)の声も、混じっていた気がした。


 俺はその夜、久しぶりに、少しだけ、いい気分で灰桜(はいざくら)を吸った。


 次の朝、それは、来た。


 監査室からの照会が取り下げられていた。理由の欄にはこうあった。


 ――当該規格は、旧告示の不備を受け、本日〇時付で、新告示により再発効。告知期間・分類根拠を是正済み。差し戻し済み案件につき、監査対象外。


 俺はその一行を、しばらく見ていた。


 企業は規格を、撤回しなかった。


 俺が突いた不備を、直したのだ。告知期間が短すぎた? なら、延ばして出し直した。骨格補強(こっかくほきょう)義体を一律に危険物扱いするのが差別? なら、文言を、個別審査という体裁に整え直した。中身は、同じだ。トロールも、オークも、大柄な者は、橋を渡れない。ただ、その決定に、もう、突くべき不備は、なかった。


 俺が流した一枚は、向こうの札を、より完璧にする材料になっていた。


 古椿(ふるつばき)の言った通りだった。告発は、間違いを暴く。整理する側の仕事は、間違いを直すことじゃない。書式を、直すことだ。


 亜人権利団体の声明は、宙に浮いた。是正済みの規格を差別だと言い続けるには、新しい根拠が要る。報道の一つは、橋の写真を撮って帰った。是正済みの手続きに、記事になる隙は、なかった。


 その日の昼、俺の端末が、震えた。


 差出人不明。件名なし。本文は二行だった。


 ――お流しになった一枚、拝見しました。


 ――書式が古い。差し戻しました。


 俺は画面を、長いこと見ていた。


 脅しでも、予告でもなかった。ただ、事務的な、受領の通知だった。あなたが送ってきた書類は、様式が古いので受理できません。窓口で、そう言われるのと、同じ声だった。俺の反撃は、怒りにも値しなかった。ただ、書式が古い、と、突き返された。


 指先が細かく震えた。俺は灰桜(はいざくら)のケースの角を指で確かめた。


 あの地下の夜、俺は、送られる側から、送り返す側に回った、と思った。一方通行が、双方向になった、と。


 だが、双方向というのは、こういうことだった。こちらが一枚送れば、向こうは、それを綺麗に整えて送り返してくる。しかも、こちらの一枚を、材料にして。俺の反撃は、届かなかったのではない。届いて、利用された。


 俺は灰桜(はいざくら)のケースを握りつぶしそうになって、やめた。腹を立てても、相手には届かない。腹を立てる相手すら、そこにはいない。書式を直したのは、誰か一人ではない。窓口と、承認欄と、標準手順と、そういうものが、順番に、事務的に、俺の一枚を無効にした。殴る顔が、どこにもない。それが、この街の、いちばん腹の立つところだった。


 ヨナに、電話をかけた。何と言えばいいのかわからないまま、かけた。


『……だめ、でしたか』


 俺が何か言う前に、ヨナが、そう言った。声で、わかったのだろう。この女は、だめだった、という報せの受け取り方に、慣れていた。


「すまない」


『いえ』


「まだ、終わってない。別の手を――」


久我(くが)さん』


 ヨナは静かに、俺の言葉を遮った。


『明日の朝も、子どもらは、向こうへ行かなきゃいけないんです。今日も、行けなかった。二人、施設を休みました。一人は、お母さんが仕事を休んで、遠回りして、歩いて連れて行った。……手続きは、いいんです。明日の朝が、要るんです』


 制度は、明日の朝を待ってくれない。


 俺の得意な、書式の殴り合いは、明日の朝には、間に合わなかった。

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