8-2
ヨナが俺の事務所に来たのは、その日の午後だった。
ドアを潜るとき、彼女は肩をすぼめ、頭を大きく下げた。事務所の天井は低い。ヨナが背を伸ばせば、たぶん頭がつかえる。彼女は入ってくる前から、部屋の高さに合わせて、自分を小さくしていた。
トロール。女。見上げるほど大きい。削って丸めた角。太い腕には、骨格補強の継ぎ目が走っている。だが、その大きな手は、膝の上で、ひどく遠慮がちに組まれていた。力を持て余した者ではない。力を、ずっと持て余さないように生きてきた者の手だった。
俺はこういう手を、前にも見た。港湾のオークの班長。地下のドワーフの技師。大きく、頑丈に生まれた者たちの手は、たいてい傷だらけで、そのくせ、驚くほどそっと動く。自分の力で何かを壊してきた記憶が、その手を慎重にする。ヨナの手も、そうだった。
「守屋ヨナといいます」
声は、体の大きさに比べて、驚くほど静かだった。
「御堂さんから聞いて」
「道路屋の」
「はい。橋のことなら、あの人が詳しいけど、橋屋じゃない、と。……こういうのは、帳外屋だと」
ソファの端で、サエが薄目を開けた。ヨナの巨躯を、灰色の目が、上から下まで確かめる。
「大きいね」
「……はい」
「謝らなくていい」
サエはそれだけ言って、また目を閉じた。ヨナは少し戸惑った顔をした。大きいと言われて、謝らなくていい、と返されたことが、たぶん、あまりなかったのだろう。
「大きいと」
ヨナは、膝の上の手を少し握った。
「小さくしていろ、と言われて育ちました。声を落とせ。ゆっくり動け。道の端を歩け。子どもの前では、特に。乱暴だと思われたら、次はもっと狭いところへ押し込められる。だから、加減する。ずっと加減して、生きてきました」
彼女は、削って丸めた自分の角を、無意識に指で触れた。
「橋も、そうです。壊せば、渡れる。でも壊したら、次は私たちを閉じ込める、いい口実になる。だから、壊せない。渡れないのに、暴れることも許されない」
俺は、その理屈の出口のなさを聞いた。大きい者は、大きいというだけで、抵抗の手段まで先に奪われている。暴れれば、危険物の証明になる。黙れば、いない者にされる。
俺は灰桜を一本くわえた。火はつけない。
「橋が渡れなくなった」
「今朝からです」
ヨナは端末を出した。橋のゲートの、赤い通行拒否の表示。新橋梁通行安全規格。車両総重量・乗員体格の上限。骨格補強義体の、危険物としての再分類。
俺はその表示の隅を見た。
白い札があった。妙に余白の多い、見覚えのある白さ。
交通系整理/IX――。
喉の奥が嫌な鳴り方をした。
この札を、俺は知っていた。ついこの前、俺自身が、地下の底から一枚、外へ流したものだ。
*
「知ってる札なの」
サエが、目を閉じたまま訊いた。俺の声の何かが、変わったのだろう。
「……ああ」
俺は、それ以上は言わなかった。ヨナの前で、これは俺が流したものだ、とは言えない。あの夜、俺は地下の底で、企業が隠していたこの一枚を、古椿の棚へ逃がした。閉じる前に、こちら側が知っている。それが、あの夜の仕事の意味だと思っていた。
思い違いだったのかもしれない、と、今、少しだけ思った。
「守屋さん。橋を渡りたいだけか。それとも、この規格そのものを、止めたいか」
俺が訊くと、ヨナは、しばらく考えた。大きな体の中で、言葉を、慎重に選んでいる。
「……壊したいんじゃ、ないんです」
彼女は膝の上の手を、ほどいた。
「橋を壊せば、たぶん、渡れます。私の腕なら、あのゲートくらい。でも、壊したら、次はもっと、私たちを閉じ込める理由になる。トロールは乱暴だ、危険だ、って。……だから、壊したくない。ただ、子どもらを、時間どおり、向こうへ送りたい。それだけなんです」
乱暴に見える者ほど乱暴を許されない。ヨナはそれを、体で知っていた。俺はこの依頼人が、少し好きになった。
「わかった。受ける」
「お金は」
「相場でいい。ただ、期待しすぎるな。相手はたぶん、殴って倒せるものじゃない」
ヨナは頷いた。殴って倒せるものなら彼女は、俺のところへは来ていない。
*
俺はその足で、古椿のところへ行った。
旧都庁第二庁舎の地下。廃止された行政バックボーンのいちばん深いところ。冷却ファンの低い唸りの中で、色の落ちた作務衣の老人が、ちゃぶ台の前に座っていた。袖口から伸びた古いケーブルが、背後のサーバへ吸い込まれている。
「久我ミナト。まだ灰桜を吸っとるのか」
「あんたに預けた一枚が、動き出した」
俺は、ヨナの端末で撮った橋のゲートの表示を見せた。交通系整理の白札。古椿は、丸眼鏡の奥の目を、ゆっくり細めた。
「地下で、お前さんが流したやつじゃな」
「同じ札だ。今度は、橋の上に出てきた」
「そうか」
古椿は茶をすすった。
「早いのう。地下を閉じて、次は橋か。……通れん者を、街区の外へ押し出す。押し出された者を、登録から外す。外れた者を、片づける。順番になっとる」
「その順番を、俺は地下で見た」
「見たな。そして一枚、逆に流した。いい手じゃった。……じゃが、向こうも気づいた。気づかれた手は、二度目は通らんぞ」
「わかってる」
「わかっとらん顔じゃ」
古椿は茶をすすった。図星だった。地下で一度うまくいったやり方が、橋でも通ると、俺はまだ思っていた。
「その順番の、いちばん最初が、これだ」
俺は言った。声に、少し、力がこもったのが自分でもわかった。
「まだ、間に合う。この規格は、昨日発効したばかりだ。証拠は、もうあんたの棚にある。俺が地下で抜いた、大元の案件だ。監査に一枚出れば、少なくともこの橋の閉鎖は、止められる」
俺は、勝ち筋を口に出していた。久しぶりだった。負ける前提で仕事をするのに慣れた男が、珍しく、止められるかもしれない、と思っていた。
古椿は、俺をしばらく見ていた。それから、湯呑を置いた。
「久我ミナト。ひとつ、古い話を、してやろう」
「今か」
「今じゃ」
古椿は、背後のサーバの緑の光を、少し見た。
「昔、まだ儂が現役の行政サーバじゃった頃。ある古い水路の埋め立てが、違法じゃと告発されたことがあった。証拠も、揃っとった。新聞にも載った。……で、どうなったと思う」
「止まったのか」
「止まらん」
古椿は静かに言った。
「役所はな、埋め立てを、やめんかった。書式を、直したんじゃ。告発された古い許可番号を差し戻して、新しい、もっと綺麗な番号で、出し直した。手続きの不備は、認めた。埋め立ては、続けた。……告発は、間違いを暴く。じゃが、整理する側の仕事は、間違いを直すことじゃない」
彼は俺を見た。
「書式を、直すことじゃ」
冷却ファンの音がやけに大きく聞こえた。
俺はその話を、地下でも聞いた気がした。港湾の間宮という男。労働の事故を、リスク係数で正当化した男。あいつにも、悪意はなかった。ただ、標準に従っていた。整理する側は、いつも悪意なく、正しく、人を削る。古椿の言う書式を直す手も、たぶん、同じ顔をしている。
「脅かすなよ」
「脅かしとらん。古い話をしとる。……お前さんの流した一枚は、たしかに向こうの痛いところじゃ。じゃが、痛いところを突かれた整理屋は、たいてい、こうする。突かれた箇所を、いちばん綺麗な書式に整え直して、押し通す。告発された一枚は、皮肉なことに、向こうの書式を、より完璧にする材料になる」
「なら、どうすればいい」
「わからん」
古椿はあっさり言った。
「儂は、忘れられた記録を覚えとるだけの、古いサーバじゃ。整理を止める方法は、知らん。……ただ、覚えておけ。告発では、規格化は止まらん。止めたいなら、告発の外へ出るしかない。整理の、内側にな」
整理の、内側。
その言葉が、喉の奥に小さく引っかかった。俺は、地下で見た俺自身の死んだ名前を、少しだけ思い出した。だがそのときは、まだ、それを繋げて考えなかった。
古椿は、それ以上は言わなかった。言わないことで、俺に考えさせる。この老いたサーバの、いつものやり方だ。順番がある、といつか言った。物事には、思い出す順番がある、と。俺はその順番の、まだ手前にいた。橋を、書式で救えると思っている、手前に。
俺は古椿の警告を、半分だけ聞いた。残りの半分は、聞かなかった。まだ、勝てると思っていたからだ。
棚に一枚ある。監査に出す。橋は止まる。
その筋を、俺は、まだ、手放していなかった。




