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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第八話 トロールは橋を渡れない

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8-1

 守屋(もりや)ヨナは、子どもに触れる前に、いつも三つ数えた。


 一つ、二つ、三つ。数え終えてから、力を抜く。ドアを閉めるときも、眠った子を抱き上げるときも、送迎車の扉に手をかけるときも。トロールの手は、加減を忘れると、簡単に何かを壊す。だからヨナは、生まれてからの三十何年かをかけて、自分の力を三つ数えるあいだに殺す癖をつけた。


 大きく生まれた者は、この街ではまず、加減を覚えさせられる。


 その朝も、いつも通りだった。ヨナは東の街区の古い集合住宅を一軒ずつ回り、子どもを一人ずつ送迎車に乗せていった。


 最初は双子の兄妹だった。まだ半分眠っている二人を、ヨナは両腕に一人ずつ抱えて、車まで運ぶ。抱き上げる前に、彼女は口の中で数えた。一つ、二つ、三つ。数え終えてから、腕に力を通す。眠った子の背骨は細い。加減を間違えれば、抱いただけで痛めてしまう。三つ数えるのは、そのための儀式だった。


 次はエルフの女の子。次はオークの兄妹。ヨナはそれぞれの家の前で、その子の重さとその日の機嫌を確かめて、そのたびに三つ数えた。三十何年のあいだに、その数え方は呼吸と同じくらい自然になっていた。誰も、ヨナが数えているのを知らない。子どもたちはただ、この大きな先生の腕がいつも優しいことだけを、知っていた。


 ヨナの送迎車は古い大型の電動バンだった。屋根の上に、黄色い回転灯がひとつ載っている。緊急車両のものではない。ただの、送迎中を知らせる古い灯りだ。塗装は褪せ、レンズには細かい傷が入っている。企業広告の青や桃や緑とは似ても似つかない。疲れた、実用の黄色だった。


 毎朝、ヨナはその黄色い灯りを回して、湾岸区の東の街区から、運河(うんが)を渡った西の保育施設まで、子どもたちを送り届ける。渡るのは第九(だいきゅう)橋。大型車両用の、古いゲート付きの橋だ。トロールやオークの運転する重い車が、昔から通ってきた。


 その朝も、ヨナはいつも通り、七時十分に橋の手前へ着いた。


 後部座席には六人の子どもが乗っていた。ヒューマンの双子。片耳の尖ったエルフの女の子。オークの兄妹。そして、いちばん後ろの席に、(ごう)がいた。


 (ごう)は、五歳のトロールの子だ。この街のトロールの例に漏れず、五歳にして、もう並のヒューマンの大人ほどの背丈がある。額の左右に、生えかけの角が、二つ、小さく盛り上がっていた。まだ柔らかい。触ると、少し温かい。


 (ごう)は、車の中でいつも、いちばん小さくなって座っていた。大きいと、迷惑をかける。誰に教わったのか、この子はもう、それを知っていた。ヨナと同じだった。


(ごう)。今日はちゃんと朝ごはん食べたか」


「……たべた」


「何を」


「……ぜんぶ」


 (ごう)は口数が少ない。大きな体の中に、小さな声を、いつも仕舞っている。ヨナはその仕舞い方を、よく知っていた。自分も、そうやって生きてきたからだ。


 車の中では、双子が朝ごはんの話をして、エルフの女の子が窓の外の何かを数えていた。にぎやかだった。(ごう)だけが、いちばん後ろで静かにその声を聞いている。


 (ごう)は、笑うとき口を手で隠す。牙が見えるとこわがられると、誰かに言われたのだろう。ヨナはその仕草を見るたびに、胸のどこかが静かに痛んだ。五歳の子が、もう自分の牙を隠している。ヨナ自身が、削って丸めた角を持っているように。大きく生まれるというのは、この街では、生まれた瞬間から少しずつ、自分を削られていくことだった。


 橋のゲートが近づく。ヨナは速度を落とし、認証端末に送迎車の車両IDをかざした。


 いつもなら、青いバーが灯って、ゲートが上がる。


 その朝は赤だった。


『通行を許可できません』


 合成音声が明るく言った。


『当該車両は更新後の橋梁通行安全規格を満たしていません』


「規格」


 ヨナは端末を見た。


『車両総重量、および乗員体格が、新基準の上限を超過しています。橋梁の構造保全のため通行を制限します』


「昨日まで、渡れてた」


『昨日までの基準です。本日〇時より、新基準が適用されています』


 ヨナはもう一度、車両IDをかざした。同じ赤いバー。もう一度。赤。機械は何度やっても、同じ明るい声で、同じことを言った。悪意はない。ただ、昨夜書き換えられた数字を、正確に繰り返しているだけだ。


 後ろの席で、双子が顔を見合わせた。エルフの女の子が、窓の外の橋を見た。子どもたちは、まだ何が起きたのかわかっていない。ただ、いつも通る橋が今朝は通れないこと。先生が、めずらしく動かないこと。それだけを、感じ取っていた。


 ヨナはしばらく、その赤いバーを見ていた。


 橋はそこにある。コンクリートも、古いゲートも、昨日と同じだ。橋が壊れたわけではない。ヨナの車が、重くなったわけでもない。ただ、昨夜のうちに、どこかの誰かが、数字をひとつ書き換えた。それだけで、三十年通ってきた橋が、今朝から、渡れない橋になった。


 後ろで、(ごう)が、小さく身じろぎした。


「ヨナせんせい。とおれないの」


「……少し、待とうな」


 ヨナは後ろを振り返った。六人の子どもが、不安そうに彼女を見ている。ヨナは、いつもの声を作った。大丈夫だ、という声を。


「先生の車が、ちょっと大きすぎたみたいだ。橋がな、細いのが好きなんだと。先生が痩せてくるまで、待ってな」


 双子が少し笑った。エルフの女の子も、つられて笑う。(ごう)だけが、笑わなかった。この子は、たぶんわかっていた。橋が細いんじゃない。自分たちが大きいんだ、と。


 ヨナは三つ数えた。一つ、二つ、三つ。それから、静かにハンドルから手を離した。怒って、ゲートを殴らないために。この手は、加減を忘れると、簡単に何かを壊す。橋のゲートくらい、たぶん、壊せる。壊せるからこそ、壊してはいけなかった。壊せば、次に困るのは、後ろの六人だ。


 黄色い回転灯が、誰も渡れない橋の手前で、意味もなく回り続けていた。

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