7-9
俺たちは地上へ出た。
夜の東京湾岸区は、相変わらず広告の光で明るかった。地下の鈍い黄色に慣れた目には、地上の青や桃や緑が、少し痛い。
サエが壁にもたれ、ゆっくり息を吐いた。狭い管を通った反動で、顔色はまだ白い。濡れた黒髪が頬に張りついている。
彼女が、あの狭い鉄の管の中で何を思い出していたのかは、訊かなかった。訊けば、俺も、あの端末室で何を見たかを訊かれる。俺たちは、そういう夜のあとは、たいてい、少し無口になる。作り変えられた側と、作り変える側にいた者。入れない部屋を、それぞれ、抱えている。
「悪かったな」
俺が言うと、彼女は目だけをこちらへ向けた。
「何が」
「狭いとこ」
「追加料金」
「だろうな」
「でも、今回は安くしとく」
「なぜ」
サエは少しだけ考えた。
「ドワーフ、嫌いじゃない」
それだけ言って、彼女は壁から背を離した。優しい言葉を言いすぎる前に、距離を取る。いつものやり方だった。
俺は灰桜に火をつけた。青白い霧を口の中に溜め、肺には入れずに吐く。煙は地上の風に流されず、足元へ沈んだ。地下へ戻りたがっているようだった。
端末を出す。差出人不明のメッセージは来ていなかった。
俺は、それを、しばらく見ていた。
いつもは、来た。沼田の記録を戻した夜も、道路を通った夜も、オークの名前を直した夜も、エルフを一人逃がした夜も。仕事を一つ終えるたびに、差出人不明の一行が、必ず届いた。死んだままの方が幸せな記録もある。頑丈なものから、先に片づく。片づけたのは、あなたの半分です。――一方通行の、静かな圧だった。
今夜は、来ない。
脅しが来ないことが、逆に、答えだった。今夜、俺は初めて、向こうの帳簿に、一枚、傷をつけた。送られる側だった俺が、送り返した。だから、向こうは、いつものように、余裕のある一行を、置いていけなかった。
一方通行だったものが、初めて、双方向になった。それは、たぶん、いい報せではない。だが、悪い報せでも、なかった。
少しして、端末が震えた。差出人は、古椿だった。
――一枚、届いた。古い棚に入れておく。誰も読まん場所じゃ。読まんから、消えん。
続けて、もう一行。
――お前さん、自分の半分を使ったな。
俺は、返事を打たなかった。打てなかった。
古椿は、こちらの返事を待たずに、三行目を寄越した。
――あれは、消すなよ。理由は、まだ言わん。順番がある。だが、塞ぐな。それだけは、覚えておけ。
俺は、その三行を、しばらく見ていた。
死んだ半分は、傷だった。今夜、それを動かしたせいで、生きている俺の登録は、また少し、不安定になる。だが、俺は今夜、その傷を、一度だけ、穴として使った。傷でありながら、通り道でもあった。古椿は、それを塞ぐなと言った。理由も言わずに、ただ、覚えておけと。
俺は、まだ、その意味の全部を、掴んではいなかった。だが、今夜、身体の側は、先に掴んだらしかった。震える手が、灰桜のケースの角を確かめている。忘れたい過去ほど、体の側に、律儀に居座る。そして、その過去が、今夜初めて、使える道具の形をして、俺の手の中にあった。
古椿からの最後に短い一行が、付け足されていた。流した一枚に、目を通したのだろう。
――ときに、この交通の札。次に閉じるのは、重い者が渡る場所じゃな。
橋、と俺は思った。ゲート。大柄な者から順に、渡れなくなる。地上のゲートで弾かれた者が、地下へ落ちる。落ちた者の道を、今夜、企業は閉じようとした。俺たちは、その一つを、こじ開けた。だが、上の入口は、まだ、これから閉じる。
地下を残しても、橋が閉じれば、また誰かが、下へ落ちてくる。
俺は煙を吐いた。青白い霧が、足元へ沈んでいく。
サエが振り返った。
「次?」
「たぶんな」
「報酬は」
「不明」
「最悪」
「いつものことだ」
俺は端末をしまい、歩き出した。角の顔認証ゲートが、俺の顔を読んだ。一瞬、認証灯が、赤くなりかけた。ほんの一瞬だ。すぐに、青に戻る。通行、許可。
サエが、それを見ていた。
「今の」
「気のせいだ」
「ゲートが、あんたを疑った」
「疲れてるんだろう」
「ゲートが?」
「俺がだ」
サエは、それ以上訊かなかった。だが、俺の少し前を行く肩が、いつもより半歩だけ、俺の側に寄っていた。
地上では、何も知らない広告が、今夜も笑っている。足元のずっと下で、古い誘導灯が、まだ鈍く灯っている。都市は、上から順にきれいになる。そして、下から順に、生きる場所が、なくなっていく。
その順番の、いちばん下の穴に、俺の死んだ半分が、今も名義を貸したまま、働いている。
ドワーフは、地下を捨てなかった。
俺は、まだ、自分の半分を、捨てるべきか、使うべきか、決めかねていた。




