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俺は、弾かれたはずの死亡済み権限をもう一度、開いた。
さっきは、弾かれた。だが、あのとき見た名簿の意味がわかっていた。敵は、俺の死んだ名義を、この地下へ入るための鍵として使っている。鍵は、どちら側からでも回る。敵が俺の死体で入った穴なら、俺も、その穴から逆に入れる。
俺は、自分の死亡済みアカウントの内側へ入った。
嫌な感覚だった。自分の名前を、自分で名乗るのに、それが死人の名前で、しかも、企業の側の権限として登録されている。俺は、俺の死体の中に、もぐり込んでいた。手が、また震えた。だが、今度は止めなかった。震えたまま、進んだ。
嫌なのは、震えではなかった。この死体の名義が、俺の身体にあまりに馴染むことだった。企業の権限の中を、指が迷わず進む。どこを押せば通り、どこに触れれば記録が残らないか、頭より先に手が知っている。死んでいるほうの俺は、生きているほうの俺より、よほどこの仕事に慣れていた。
俺は、その慣れを、今夜だけ借りることにした。憎んでも、手は言うことを聞かない。なら、使う。加害に使われた手でも、今夜は記録を一つ、消えないところへ逃がす。古椿ならそう言うはずだった。
死亡済み保守員の権限からはいろいろなものが見えた。地下の整理計画。閉鎖予定の経路。処理対象の名簿。そして、その奥に、別の白い札の束があった。まだ発令されていない、次の整理案件だった。
俺は、その一枚に、指を止めた。
交通規格整理。橋梁・ゲート通行基準の更新。体格・重量・骨格補強義体を通行リスクとして再分類。該当者、通行制限。白札、IX――交通系。
地下を閉じるのと、同じ手だった。地上のゲートで重い者を弾き、弾かれた者を地下へ落とし、地下の道を閉じて、整理する。順番になっていた。地上と地下で、別々に起きているように見えて、同じ帳簿が、上から下へ、順番に締めていた。
俺は、その一枚を、コピーした。
コピーには、時間がかかった。古い規格だ。死んだ名義の権限は、正規の速度では動かない。一文字ずつ、掠れた回線を、記録が這っていく。その間、俺は、システムが俺の死体に気づかないことを、祈るしかなかった。生きている人間が祈るには、ずいぶん皮肉な祈りだった。自分の死体が、もう少しだけ、死んだふりを続けてくれますように、と。
一枚だけだ。二枚目を取れば、それは戦いになる。一枚なら、まだ、記録を一つ、外へ逃がすだけだ。御堂の六号が、一発しか撃たなかったのと同じだった。
二発撃つと、言い訳になる。いつだったか、道路屋の御堂が、そう言っていた。一発で終えれば、それは修理の範囲だ。二発目を撃てば、戦いになる。俺がこれから撃つ一発は、弾ではない。記録だ。だが、撃てば返ってくるのは同じだった。撃った分だけ、こちらの何かが削れる。
持ち出し先は、決めていた。
俺は、古い規格の通信線に、繋いだ。旧行政バックボーンの、深いところ。古椿の、古い棚だ。
――古椿。一枚、そっちへ流す。消えないところに、置いてくれ。
返事は、すぐには来なかった。古い妖怪は、古い道を、ゆっくり通る。だが、線の向こうで、確かに何かが、受け取った気配があった。
その瞬間、端末が、赤く鳴った。
『死亡済み権限の異常稼働を検出。当該アカウントを再照合します』
代償が、来た。
死んだ半分を、俺自身が動かしたことで、システムが、俺の名義を確かめ直そうとしている。稼働中の死人が、勝手に動いた。それは、都市にとって、片づけ損ねの証拠だった。
俺の指先の震えが、一段、強くなった。灰桜のケースの角を指で確かめる。今夜のこれは、あとで、必ず、俺の現在の登録に、返ってくる。生きている俺の輪郭が、また少し、薄くなる。
だが、一枚は、逃げた。
たった一枚だ。街じゅうの整理を止めたわけでも、地下の全員を救ったわけでもない。俺の死んだ半分が、企業の帳簿の内側から、一枚だけ、外へ落とした。それだけだった。だが、その一枚は、これから閉じられる橋の設計図でもあった。閉じる前に、こちら側がそれを知っている。今夜の仕事の意味は、たぶん、そこにしかなかった。
いくつもの夜、俺はずっと、送られる側だった。差出人不明の一行を、ただ受け取っていた。今夜、初めて、俺は、送り返した。
*
水位は下がった。
すぐにではない。泥水はしつこく、古い排水溝は何度も咳き込むように泡を吐いた。それでも、足首、靴底、溝の底へと、少しずつ水は戻っていった。
閉じ込められていた者たちは古い誘導灯に沿って移動した。顔認証を通れない老人。小型の怪異。親子。手書きの地図を抱えた者。誰も大きな声で礼は言わなかった。地下では、大きな声は響きすぎる。ただ、通り過ぎるときに、ほんの少しだけ頭を下げた。それで十分だった。
その列の中に、榎戸がいた。杖をつき、古い布包みを、まだ胸に抱えている。俺の横で、彼は一度だけ足を止めた。
「濡れなかったか」
俺が布包みを目で示すと、榎戸は頷いた。そして、包みの結び目を少しだけ緩め、中の紙の写真を、俺に見えるように傾けた。若い女と、小さな娘が写っている。色は褪せ、折り目で顔が半分かすれていた。
「端末の写真は、何度も消えた。会社が変わるたび、システムが変わるたび、勝手にな。……この紙だけが、残った」
彼は、写真を布に戻した。丁寧な手つきだった。
「毎朝、地下を歩くのはな。地上のゲートが、俺の顔を、もう俺の顔と認めんからだ。顔が変われば、記録も変わる。記録が変われば、いつか、こいつも、いなかったことにされる」
彼は、胸の包みを、軽く叩いた。
「だから、俺が覚えとる。この二人が、いた。俺が歩けるうちは、俺が覚えとる。それだけのために、歩いとるようなもんだ」
俺は、返す言葉を探して、見つからなかった。慰めは、この老人には要らない。ただ、俺は頷いた。榎戸は、それで十分だという顔をして、また、鈍い黄色の誘導灯のほうへ、ゆっくり歩いていった。
いつだったか、コマリも、似たことを言っていた。覚えている人がいなければ、その人は、いなかったことになる、と。ただ、コマリは家を覚え、榎戸は、二人を覚えていた。誰も頼んでいないのに、忘れないでいることだけが、この街では、抵抗になる。
AI保守網は、停止しなかった。地下全体の管理は、予定通り企業AIへ移った。旧式設備の多くは整理される。使われていない通路は閉じられる。手動バルブも、すべてが残ったわけではない。ドワーフ技師組合の正式契約も解除された。
代わりに、樫森ガンテツには新しい肩書きが与えられた。
災害時例外監修者。
給料は下がる。権限も減る。通常保守には口を出せない。企業の会議では、古い地下の参考人として呼ばれるだけだろう。
それでも、地下からは追い出されなかった。
三ツ目が、泥水に濡れた端末を抱えて言った。
「親方。これ、勝ちですか」
ガンテツは、泥まみれの髭を絞った。黒い水が床に落ちる。
「勝ちなら、もっと給料が上がる」
「じゃあ負けですか」
「負けなら、地下はもう水の底だ」
ガンテツは、鈍い黄色に灯った誘導灯を見た。
「負けはしとらん」
三ツ目は、少しだけ笑った。それから、手の中の保守帳を見た。泥を吸って、さっきより重くなった、古い紙の束を。
「親方」
「なんじゃ」
「これ、呪いだって、言いました」
「言ったな」
ガンテツは、三ツ目を見た。
「なら、解け」
低い声だった。
「わしにしか読めんなら、それは呪いだ。お前が読んで、お前が渡せ。地下を知らん連中に整理される前に、お前の言葉に直しておけ。――お前の言う、気持ちの悪い言葉に、な」
三ツ目は、しばらく黙っていた。それから、両手で保守帳を抱え直した。紙の写真を守った榎戸と同じ手つきだった。
「データ化します」
「汚すなよ」
「もう泥だらけです」
「紙が泣く」
「泣かせません。ちゃんと、読める形にします」
俺は、その光景を少し離れて見ていた。
記録を、渡す。奪われる前に、自分の手で次の手へ。ガンテツがやっているのは、俺がこの街でずっと見てきたことの、いちばんまっすぐな形だった。古椿は、忘れられた記録を古い棚に抱え込んだ。沼田は、消される前に証拠を端末へ残した。コマリは家の記憶を、自分で選んで抱えた。みんな、記録を誰かに渡そうとしていた。渡した記録だけが、その人が「いた」ことを証してくれるからだ。
ガンテツは、それ以上は言わなかった。ただ、髭の奥で、口の端が少しだけ動いた。笑ったのか、こらえたのか、俺にはわからなかった。
「帳外屋」
ガンテツが、ふいに俺を呼んだ。
「あんた、さっき、古い権限を使ったな。弾かれとったのが、途中から通った」
「気づいてましたか」
「地下を長くやると、道具の音でわかる。無理をさせた道具は、鳴き方が変わる」
俺は答えなかった。
「どんな道具も、使えば減る。使わなけりゃ、錆びる。……どっちにしろ、ただでは済まん」
ガンテツは、それだけ言って、泥水に濡れた保守帳を、三ツ目の胸に、もう一度押しつけた。自分の道具を、次の手へ渡す男の言葉だった。俺は、内ポケットではなく、システムの奥に繋がれた、死んだ半分のことを思った。使えば減る。使わなければ、錆びる。どちらにしろ、ただでは済まない。
水城は、地下から先に上がっていった。降りてきたときより、白いブーツが、少しだけ汚れていた。泥をつけたことに、彼はたぶん、まだ気づいていない。だが、あの一歩を退いた足は、もう、前と同じ清潔さでは、いられないだろう。




