7-5
零時まで、あと三分。
ガンテツが保守帳を開いた。三ツ目はAI補助端末を立ち上げる。俺は灰桜をくわえた。サエは袖の奥で指を動かし、風の流れを確かめている。
地下の非常灯が、一斉に白く変わった。
『AI保守網への移行を開始します』
最初に閉じたのは、保守扉だった。壁の奥で重い音が響き、地下歩廊へ続く古い扉が、一枚、また一枚とロックされていく。続いて、手動バルブの制御盤に赤い警告が走った。旧通信幹線の中継機が沈黙し、作業ドローンの目が、青から桃へ、桃から緑へと切り替わる。
企業の色だ。
『安全確保のため、管理外人員の移動を制限します』
明るい声が地下に響いた。安全確保。管理外人員。移動制限。言葉は丁寧だった。だから余計に悪かった。閉じ込める、とは言わない。追い出す、とも言わない。安全確保のために、そこにいることを認めていない人間の移動を制限するだけだ。
水位が、上がり始めた。
その上がり方は、ふつうの水害とは違った。下から押し上げてくる。都市の排水は、低い方へ流すようにできている。だが今夜の水は、AIが低い口を閉じたぶんだけ行き場を失って、上へ、人のいる高さへと逆流していた。安全確保のために閉じた扉が、水の逃げ道まで閉じていた。
黄色い保安灯が、水面に一つ、また一つと映って揺れる。地上の広告の青や桃や緑とは、似ても似つかない光だった。疲れた光が、濁った水の上で頼りなく揺れている。それでも、その一つ一つの下に、人がいた。
「三ツ目、東の排水を開けろ」
「ロックされています」
「なら西を閉じろ」
「閉じると南が溢れます」
「南には人がいる」
「だから閉じられません」
「わかっとる」
ガンテツは泥水へ足を入れた。膝まで沈む。水面に油膜が浮かび、黄色い保安灯を歪めて映した。
『水位上昇。危険区画を閉鎖します』
南側の通路で、また扉が落ちる音がした。
榎戸が地図を見た。
「そこは駄目だ。親子がいる。さっきの」
三ツ目が端末を叩いた。
「南西歩廊、通信途絶。非常導線も応答なし」
「非常導線は火災時なら開く」
「AIが水害と判定しています。火災ではないので、閉じたままです」
「今が火事よりましに見えるか」
「AIには見えていません」
見えない、というのが、いちばん怖かった。悪意でも、故障でもない。AIは、水害の手順を正しく実行していた。火災ではないから、非常導線は開けない。手順書に、そう書いてある。手順書は、正しい。ただ、それを書いた人間が、この地下に人が取り残される夜を、一度も想像しなかっただけだ。想像されなかった者は、手順の外で、静かに溺れる。
サエが低く言った。
「狭い管、通れば行ける?」
三ツ目が彼女を見た。
「行けます。でも、かなり狭いです」
「最悪」
「俺が行きます」
三ツ目が言った。ガンテツが止めた。
「お前は端末に残れ。地下を全部、足で直そうとするな。お前はお前の道具を使え」
三ツ目は悔しそうに端末へ戻った。
サエが、狭い保守管の前に立った。直径は人一人がようやく通れるほどだ。風はほとんどない。暗い。奥で水の音がしている。
彼女の左手が、右手首を掴んだ。俺は見てしまった。
サエがこちらを見た。
「見てないで前」
「行けるか」
「質問料、高い」
「払う」
「じゃあ行ける」
答えになっていない。だが、彼女は管の中へ入った。
黒いコートが狭い鉄の縁に擦れる。赤い駆動線は弱く、不安定に灯った。風が少ない場所で、鎌鼬は強くない。狭い場所で、彼女はもっと強くない。閉じた鉄の管は、彼女がいちばん忘れたい場所に、形が似ている。それでも、行く。
鉄の壁が、両肩に触れている。仰向けのまま動くなと言われ続けた、あの台の狭さに、似ていた。彼女は奥の暗がりだけを見て、壁を見ようとしなかった。
「南西、着いた。親子、いる。水、膝」
通信の向こうで、サエの息が少し乱れていた。
「誘導灯は」
「死んでる」
「線は見えるか」
「見えるけど、狭い」
三ツ目が端末に噛みつくように顔を近づけた。
「サエさん、赤い被覆の下に古い銅線があります。切らないで、右の青い企業線だけ外してください。そうすれば旧誘導灯が戻ります」
「青い企業線」
「はい」
「一番腹立つ色のやつね」
「たぶんそれです」
狭い管の奥で、何かが切れる音がした。数秒後、南西歩廊の旧誘導灯が、鈍い黄色に灯った。
通信の向こうで、子どもの泣き声が聞こえた。次に、母親が何かを言う声。サエは返事をしなかった。ただ短く言った。
「行ける。急いで」
榎戸と小型の怪異が動いた。老人は地図を持ち、小型の怪異は狭い排水脇を走る。地下の住人たちが、互いに声をかけ始めた。
守られるだけではない。自分たちで通る。
ここまでは、いつもの仕事だった。閉じかけた道を、こじ開ける。落ちかけた誰かを、拾う。守勢の、いつもの夜だ。
だが、この夜は、そこで終わらなかった。




