1-5
地下六階は、図面には存在しない階だった。
エレベーターの表示はB5で止まったまま、さらに下へ沈んだ。耳の奥が圧迫される。壁の内側を太い配管が走る音がする。湿った空気と、消毒薬と、古い神社の床下みたいな匂いが混じっていた。
消毒薬の匂いを嗅いだ瞬間、俺の呼吸が浅くなった。
鼻の奥から、別の匂いが立ち上がる。待機室の匂いだ。防護マスク越しに吸った、少し甘い薬品臭。乾かない血。白い報告書。上司の「急げ」という声。回収対象、停止許可、処理済み――。
視界の端が白くなりかける。俺は灰桜をくわえ、フィルターを強く噛んだ。青い光。口の中に霧を溜め、ゆっくり吐く。霊素安定剤が、じわりと神経の縁を撫でて、白くなりかけた視界を現実に押し戻した。手の震えが、少しだけ治まる。
サエが、俺の横顔を見た。何も言わなかった。ただ、彼女は普段より半歩だけ、俺の側に立った。
扉が開く。
そこは、ビルの管理区画ではなかった。白い廊下、透明な隔壁、霊素測定器、人間用の手術台、小型怪異用の拘束具。壁には、八洲都市開発のロゴと、別の企業ロゴが重ねて貼られていた。怪異応用研究部門。認可番号は塗り潰されている。
サエの表情が変わった。軽口が消える。
彼女は無言で隔壁の向こうを見た。それから、無意識に左手で右手首を押さえた。
そこには何もない。拘束具の跡も、傷も、企業タグも見えない。それでも、その押さえ方だけは、昔そこに何かが嵌められていた人間のものだった。
「実験区画」
俺が言うと、サエは手を下ろした。
「知ってた?」
声だけが冷たい。
「知らない。だが、見慣れてる」
「最悪」
「同感だ」
サエは隔壁に近づこうとして、途中で足を止めた。透明なガラスの向こうに、施術ベッドと拘束具が見える。彼女の視線が、その拘束具の上で凍りついた。
「サエ」
俺が呼ぶと、彼女は一瞬遅れて振り返った。
「ここ、狭い」
彼女はそれだけ言った。天井は高い。廊下も広い。狭いのは、この場所ではなく、彼女の記憶のほうだった。俺はそれ以上訊かなかった。訊けば、俺が待機室のことを訊かれるのと同じになる。
白い廊下を見ていると、背中の古傷が痛む気がした。傷などない。ただ、記憶が痛む場所を体が勝手に作る。
この手の廊下では、音がよく響く。誰かの泣き声も、金属製の拘束具が鳴る音も、上司が「急げ」と言う声も。防護マスク越しに吸った空気は、いつも少し甘く、薬品臭かった。
昔の俺は、その匂いを現場の匂いだと思っていた。今は、別の名前で呼べる。人間が何かを間違えた匂いだ。
廊下の奥で、水音がした。俺たちは走った。
突き当たりの部屋に、男が倒れていた。小柄な体。濡れて黒ずんだ青緑の皮膚。背には、薄い甲羅を支える人工補助具が嵌まっている。補助具の金属はところどころ塗装が剥げ、下から古いオレンジの防錆色が覗いていた。何年も地下の水路で使い込まれた道具の色だ。河童系の怪異市民だった。
水に濡れた作業服は色が落ち、袖口は擦り切れている。指の関節には、古い切り傷の跡がいくつも重なっていた。配管に手を突っ込んで働いてきた者の手だ。作業服の胸には、下水インフラ会社のロゴがあった。
胸元には、濡れて滲んだ名札が貼られている。
沼田ゲン。下水インフラ第三管理社の技師。河童系怪異市民。
住民ではない。だが、コマリにとっては「うちの人」だった。
首元に、企業製の拘束タグ。右手には、古いデータカートリッジを握っている。もう片方の手は、作業ズボンの腿のポケットを握りしめたまま固まっていた。
「生きてる」
俺は膝をつき、脈を確認した。弱いが、ある。
サエは入口に立ち、廊下を見ている。彼女はこういうとき、倒れた相手を長く見ない。見てしまうと、何かを思い出すのかもしれない。
俺は沼田の腿のポケットを、そっと開いた。中には、小さな布の袋があった。開けると、古い釣り用の錘がいくつかと、手作りらしい疑似餌が二つ。羽根と針金で組んだ、素人細工の疑似餌だ。使い込まれて、塗装が剥げている。
『それ、地下の人の宝物です』
天井スピーカーから、コマリの声がした。
『地下の人は、休みの日に、古い釣り道具を直すのが好きでした。もう魚のいない川でも、直した道具を持って、川辺に座るんだと言っていました。魚を釣るためじゃなくて、道具を直すのが好きなんだ、って』
壊れたものを、直すのが好きな男。
俺は袋を、そっと元のポケットへ戻した。
この男は、魚のいない川に持っていく道具まで直す。
なら、夜ごと変な音を立てる配管の先に、泣いている子どもがいたら、放っておけるはずがなかった。
そういう男だった。だから、消された。
『その人は、下の水路の人です』
コマリの声が続く。
『このビルの排水がおかしいって、見に来ました。そしたら、捕まってしまいました。わたしのせいです』
「お前のせいじゃない」
俺は言った。
『わたしに気づいたから、捕まりました』
「気づいてくれる奴がいたのは、お前のせいじゃない。捕まえた奴のせいだ」
コマリは黙った。
「企業が何を流してた」
『霊素廃液。失敗した子たちの残りです』
失敗した子たち。
俺は部屋の奥を見た。透明な培養槽が三つ。中身は空だった。ひとつだけ、赤い着物の布切れのようなものが、排水口に引っかかっている。
布切れの端には、小さな白い糸で、途中まで名前のようなものが縫われていた。最後の一文字だけが、ほどけて読めなかった。
胃の奥が、鈍く沈んだ。
サエもそれを見た。彼女は何も言わなかったが、右手首を押さえる指に、少しだけ力が入っていた。
『わたしは、たくさん作られました』
コマリの声が、天井から静かに降ってくる。
『うまくいったのは、わたしだけです。ほかの子は、水に流されました』
「お前は、それを覚えてるのか」
『覚えています。だから、忘れないビルになりました』
少しの沈黙のあと、コマリは続けた。
『いちばん最初の子は、三日だけ動きました。名前をつけようとして、つけ終わる前に、止まりました。わたしは、その子の三日ぶんの記録を、まだ持っています。誰も見ないので、わたしが持っています』
俺は、空の培養槽を見た。空だが、空ではなかった。この子にとっては、そこに、名前をつけ終わらなかった誰かの、三日ぶんの時間がある。
俺は言葉を探したが、見つからなかった。
こういうとき、慰めの言葉は嘘になる。大丈夫だとも、悪いのは企業だとも、簡単には言えない。言えば、この子はきっと、それが本気かどうかを見抜く。
だから俺は、沼田の右手に握られたカートリッジに手を伸ばした。指を一本ずつ、ゆっくりとほどく。硬く握られた手だった。意識を失う直前まで、これだけは離すまいとした手だった。
カートリッジを俺の端末に挿す。古い規格だが、読めた。
中身は、記録だった。日付入りの水質測定値。霊素濃度の異常グラフ。排水経路の手書き図。そして、地下の培養槽から下水本管へ、失敗した実験体の残滓が流されていく経路を、この男は何ヶ月もかけて一人で追い、記録していた。企業のログではない。現場の人間が、自分の目と工具で集めた記録だ。
最後のフォルダに、短い音声メモが残っていた。俺は再生した。
『……三月ぶんの測定、終わり。やっぱり、上から流れてきてる。上の階に、何かある。……誰かに言うべきなんだろうな。でも、言ったら、俺が消される気がする。……まあ、それでも、記録だけは残しておく。壊れたもんを、そのままにするのは、性に合わねえ』
音声が切れた。
サエが、入口から少しだけこちらを見た。
「証拠?」
「ああ。企業の正規ログじゃない。現場の手書きだ」
「役に立つの」
「企業のログは書き換えられる。だが、こいつが自分の工具で測った数字は、企業のシステムの外にある。外にあるものは、消しにくい」
俺はカートリッジを抜き取り、内ポケットの奥へ入れた。沼田ゲンが、消される寸前まで握っていたもの。これは、ただの記録ではない。これは、この男が「いなかったことにされない」ための、たったひとつの錨だった。
「首の拘束タグは」
サエが訊いた。
「外からの信号で、いつでも焼き切れる仕様だ。企業が処理を決めれば、この河童は一瞬で意識を刈り取られる」
「外せる?」
「完全には無理だ。だが、遠隔で殺されるのだけは防げる」
俺は古いアクセスキーで、タグの通信部だけを黙らせた。沼田の喉が、微かに上下する。乾いた川底のようにひび割れかけていた青緑の皮膚に、わずかに水気が戻ってきた気がした。
「運べるか」
「重くはない」
サエは沼田を背負った。軽い、とは言わなかった。けれど、彼女の腕に収まったその体は、都市の地下で長く働いてきた者にしては、あまりに小さく見えた。




