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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一話 座敷童はビルを出ない

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5/16

1-5

 地下六階は、図面には存在しない階だった。


 エレベーターの表示はB5で止まったまま、さらに下へ沈んだ。耳の奥が圧迫される。壁の内側を太い配管が走る音がする。湿った空気と、消毒薬と、古い神社の床下みたいな匂いが混じっていた。


 消毒薬の匂いを嗅いだ瞬間、俺の呼吸が浅くなった。


 鼻の奥から、別の匂いが立ち上がる。待機室の匂いだ。防護マスク越しに吸った、少し甘い薬品臭。乾かない血。白い報告書。上司の「急げ」という声。回収対象、停止許可、処理済み――。


 視界の端が白くなりかける。俺は灰桜(はいざくら)をくわえ、フィルターを強く噛んだ。青い光。口の中に霧を溜め、ゆっくり吐く。霊素(れいそ)安定剤が、じわりと神経の縁を撫でて、白くなりかけた視界を現実に押し戻した。手の震えが、少しだけ治まる。


 サエが、俺の横顔を見た。何も言わなかった。ただ、彼女は普段より半歩だけ、俺の側に立った。


 扉が開く。


 そこは、ビルの管理区画ではなかった。白い廊下、透明な隔壁(かくへき)霊素(れいそ)測定器、人間用の手術台、小型怪異(かいい)用の拘束具(こうそくぐ)。壁には、八洲都市開発(やしまとしかいはつ)のロゴと、別の企業ロゴが重ねて貼られていた。怪異(かいい)応用研究部門。認可番号は塗り潰されている。


 サエの表情が変わった。軽口が消える。


 彼女は無言で隔壁(かくへき)の向こうを見た。それから、無意識に左手で右手首を押さえた。


 そこには何もない。拘束具(こうそくぐ)の跡も、傷も、企業タグも見えない。それでも、その押さえ方だけは、昔そこに何かが嵌められていた人間のものだった。


「実験区画」


 俺が言うと、サエは手を下ろした。


「知ってた?」


 声だけが冷たい。


「知らない。だが、見慣れてる」


「最悪」


「同感だ」


 サエは隔壁(かくへき)に近づこうとして、途中で足を止めた。透明なガラスの向こうに、施術(せじゅつ)ベッドと拘束具(こうそくぐ)が見える。彼女の視線が、その拘束具(こうそくぐ)の上で凍りついた。


「サエ」


 俺が呼ぶと、彼女は一瞬遅れて振り返った。


「ここ、狭い」


 彼女はそれだけ言った。天井は高い。廊下も広い。狭いのは、この場所ではなく、彼女の記憶のほうだった。俺はそれ以上訊かなかった。訊けば、俺が待機室のことを訊かれるのと同じになる。


 白い廊下を見ていると、背中の古傷が痛む気がした。傷などない。ただ、記憶が痛む場所を体が勝手に作る。


 この手の廊下では、音がよく響く。誰かの泣き声も、金属製の拘束具(こうそくぐ)が鳴る音も、上司が「急げ」と言う声も。防護マスク越しに吸った空気は、いつも少し甘く、薬品臭かった。


 昔の俺は、その匂いを現場の匂いだと思っていた。今は、別の名前で呼べる。人間が何かを間違えた匂いだ。


 廊下の奥で、水音がした。俺たちは走った。


 突き当たりの部屋に、男が倒れていた。小柄な体。濡れて黒ずんだ青緑の皮膚。背には、薄い甲羅(こうら)を支える人工補助具が嵌まっている。補助具の金属はところどころ塗装が剥げ、下から古いオレンジの防錆色が覗いていた。何年も地下の水路で使い込まれた道具の色だ。河童(かっぱ)系の怪異(かいい)市民だった。


 水に濡れた作業服は色が落ち、袖口は擦り切れている。指の関節には、古い切り傷の跡がいくつも重なっていた。配管に手を突っ込んで働いてきた者の手だ。作業服の胸には、下水インフラ会社のロゴがあった。


 胸元には、濡れて滲んだ名札が貼られている。


 沼田(ぬまた)ゲン。下水インフラ第三管理社の技師。河童(かっぱ)怪異(かいい)市民。


 住民ではない。だが、コマリにとっては「うちの人」だった。


 首元に、企業製の拘束(こうそく)タグ。右手には、古いデータカートリッジを握っている。もう片方の手は、作業ズボンの腿のポケットを握りしめたまま固まっていた。


「生きてる」


 俺は膝をつき、脈を確認した。弱いが、ある。


 サエは入口に立ち、廊下を見ている。彼女はこういうとき、倒れた相手を長く見ない。見てしまうと、何かを思い出すのかもしれない。


 俺は沼田(ぬまた)の腿のポケットを、そっと開いた。中には、小さな布の袋があった。開けると、古い釣り用の(おもり)がいくつかと、手作りらしい疑似餌(ルアー)が二つ。羽根と針金で組んだ、素人細工の疑似餌(ルアー)だ。使い込まれて、塗装が剥げている。


『それ、地下の人の宝物です』


 天井スピーカーから、コマリの声がした。


『地下の人は、休みの日に、古い釣り道具を直すのが好きでした。もう魚のいない川でも、直した道具を持って、川辺に座るんだと言っていました。魚を釣るためじゃなくて、道具を直すのが好きなんだ、って』


 壊れたものを、直すのが好きな男。


 俺は袋を、そっと元のポケットへ戻した。


 この男は、魚のいない川に持っていく道具まで直す。

 なら、夜ごと変な音を立てる配管の先に、泣いている子どもがいたら、放っておけるはずがなかった。


 そういう男だった。だから、消された。


『その人は、下の水路の人です』


 コマリの声が続く。


『このビルの排水がおかしいって、見に来ました。そしたら、捕まってしまいました。わたしのせいです』


「お前のせいじゃない」


 俺は言った。


『わたしに気づいたから、捕まりました』


「気づいてくれる奴がいたのは、お前のせいじゃない。捕まえた奴のせいだ」


 コマリは黙った。


「企業が何を流してた」


霊素(れいそ)廃液。失敗した子たちの残りです』


 失敗した子たち。


 俺は部屋の奥を見た。透明な培養槽(ばいようそう)が三つ。中身は空だった。ひとつだけ、赤い着物の布切れのようなものが、排水口に引っかかっている。

 布切れの端には、小さな白い糸で、途中まで名前のようなものが縫われていた。最後の一文字だけが、ほどけて読めなかった。


 胃の奥が、鈍く沈んだ。


 サエもそれを見た。彼女は何も言わなかったが、右手首を押さえる指に、少しだけ力が入っていた。


『わたしは、たくさん作られました』


 コマリの声が、天井から静かに降ってくる。


『うまくいったのは、わたしだけです。ほかの子は、水に流されました』


「お前は、それを覚えてるのか」


『覚えています。だから、忘れないビルになりました』


 少しの沈黙のあと、コマリは続けた。


『いちばん最初の子は、三日だけ動きました。名前をつけようとして、つけ終わる前に、止まりました。わたしは、その子の三日ぶんの記録を、まだ持っています。誰も見ないので、わたしが持っています』


 俺は、空の培養槽(ばいようそう)を見た。空だが、空ではなかった。この子にとっては、そこに、名前をつけ終わらなかった誰かの、三日ぶんの時間がある。


 俺は言葉を探したが、見つからなかった。


 こういうとき、慰めの言葉は嘘になる。大丈夫だとも、悪いのは企業だとも、簡単には言えない。言えば、この子はきっと、それが本気かどうかを見抜く。


 だから俺は、沼田(ぬまた)の右手に握られたカートリッジに手を伸ばした。指を一本ずつ、ゆっくりとほどく。硬く握られた手だった。意識を失う直前まで、これだけは離すまいとした手だった。


 カートリッジを俺の端末に挿す。古い規格だが、読めた。


 中身は、記録だった。日付入りの水質測定値。霊素(れいそ)濃度の異常グラフ。排水経路の手書き図。そして、地下の培養槽(ばいようそう)から下水本管へ、失敗した実験体の残滓が流されていく経路を、この男は何ヶ月もかけて一人で追い、記録していた。企業のログではない。現場の人間が、自分の目と工具で集めた記録だ。


 最後のフォルダに、短い音声メモが残っていた。俺は再生した。


『……三月ぶんの測定、終わり。やっぱり、上から流れてきてる。上の階に、何かある。……誰かに言うべきなんだろうな。でも、言ったら、俺が消される気がする。……まあ、それでも、記録だけは残しておく。壊れたもんを、そのままにするのは、性に合わねえ』


 音声が切れた。


 サエが、入口から少しだけこちらを見た。


「証拠?」


「ああ。企業の正規ログじゃない。現場の手書きだ」


「役に立つの」


「企業のログは書き換えられる。だが、こいつが自分の工具で測った数字は、企業のシステムの外にある。外にあるものは、消しにくい」


 俺はカートリッジを抜き取り、内ポケットの奥へ入れた。沼田(ぬまた)ゲンが、消される寸前まで握っていたもの。これは、ただの記録ではない。これは、この男が「いなかったことにされない」ための、たったひとつの錨だった。


「首の拘束(こうそく)タグは」


 サエが訊いた。


「外からの信号で、いつでも焼き切れる仕様だ。企業が処理を決めれば、この河童(かっぱ)は一瞬で意識を刈り取られる」


「外せる?」


「完全には無理だ。だが、遠隔で殺されるのだけは防げる」


 俺は古いアクセスキーで、タグの通信部だけを黙らせた。沼田(ぬまた)の喉が、微かに上下する。乾いた川底のようにひび割れかけていた青緑の皮膚に、わずかに水気が戻ってきた気がした。


「運べるか」


「重くはない」


 サエは沼田(ぬまた)を背負った。軽い、とは言わなかった。けれど、彼女の腕に収まったその体は、都市の地下で長く働いてきた者にしては、あまりに小さく見えた。

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