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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一話 座敷童はビルを出ない

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1-4

 暗闇の中で、サエの腕が動いた。


 その一瞬、濡れたコートの袖の内側で、細い線が赤く灯った。腕の骨格に沿って走る、血管のような光。普段は袖の下で眠っている、企業に刻まれた戦闘用の駆動線だ。彼女がいちばん嫌っている赤が、風を呼ぶときだけ目を覚ます。


 金属音。落下してきた防火シャッターの端が斜めに切れて床に滑り、火花が散る。焦げた鉄の匂いがロビーに広がった。


 サエは切り落としたシャッター片を一瞥し、指先を軽く振った。彼女の手には刃物など見えない。ただ、周囲の空気だけが薄く震えていた。


「閉じ込める気らしい」


「攻撃じゃない。誘導だ」


「ずいぶん乱暴な誘導」


 俺は端末を確認した。外部回線は死んでいる。ビル内部のローカル網だけが生きていた。


 ロビー奥の案内板に、白い文字が浮かんだ。


 ――三階へ。


「罠ね」


 サエは案内板を見上げ、退屈そうに言った。だが、足の向きはすでに非常階段へ向いている。


「たぶん」


「行くの?」


「行かなきゃ話が進まない」


「物語みたいな言い方」


「仕事も似たようなものだ。だいたい最初の説明が嘘で、途中で死人が出て、最後に報酬が減る」


 サエは少しだけ笑った。今度は、本当に少しだけ楽しそうだった。


 非常階段へ向かう。扉は開いていた。壁には複合ビルの案内図が貼られ、人間用、車椅子用、亜人類(あじんるい)大型種用、怪異(かいい)市民用の避難経路が色分けされている。オークやトロール向けの広い階段、河童(かっぱ)水棲(すいせい)系住民向けの湿度維持区画、吸血性怪異(かいい)用の遮光(しゃこう)避難室。


 共生社会。この都市は、その言葉をよく使う。共に生きる。ただし、誰が管理するかは、いつも企業が決める。


 三階に着くと、廊下の照明が順番に点いた。


 商業フロアだった。無人コンビニ、亜人類(あじんるい)対応の衣料店、エルフ向け美容クリニック、小型鬼用の抑制薬を売る薬局、怪異(かいい)市民向けの賃貸保証窓口。どれも閉まっている。


 通路の中央に、清掃ロボットが一台止まっていた。その上に、赤い着物の少女が座っている。


 いや、正確には映っていた。ホログラムだ。黒髪、白い顔、十歳くらい。企業端末で見た姿よりも、少し輪郭が乱れている。像が揺れるたび、着物の緋色が一瞬だけ青や緑にちらついた。企業の描画コードが剥がれて、下地の多色が漏れているのだ。作り物の証だった。


 だが、膝の上でぎゅっと握られた小さな手だけは、カタログの子どもの手ではなかった。緊張で指先が白くなっている。こわがっている子どもの手だった。


久我(くが)ミナトさん』


 少女が言った。


「コマリか」


『はい。第七複合ビル住環境最適化AI、KOMARIです。登録名はありません』


「登録されてないんだな」


『される前に、廃棄予定になりました』


 その声は、淡々としていた。だが、最後の「廃棄」という単語だけ、ほんの少し音が低かった。


 サエが一歩前に出た。靴底が、濡れた床を小さく鳴らす。


「何が目的?」


『住人を守ることです』


「住人は避難済み」


『一人、残っています』


「誰が残っている」


『地下の人です』


「住民か」


『住民ではありません。でも、うちの人です』


 座敷童(ざしきわらし)らしい言い方だった。家にいる者を守る。住民票ではなく、そこに暮らした時間を基準にする。


「うちの人、ってのは」


 俺が訊くと、コマリは少しだけ顔を上げた。ホログラムの緋色が、また青くちらつく。


『わたしは、いろんなことを覚えています』


 少女の声に合わせて、廊下の壁面パネルが次々に灯った。監視カメラの静止画が、順番に映し出される。


『三十二階の男の子は、去年の春、ここの廊下で初めて自分の足で歩きました。三歩でした。お母さんが泣いていました』


 パネルが切り替わる。


『十七階のおばあさんは、毎朝六時に窓を開けて、外の空気を五分だけ入れます。夏も冬も、五分だけ。それが終わると、空調を戻します』


 また切り替わる。


『夜勤明けのオークの人は、いつも同じエレベーターのボタンを押します。右の、少しへこんだボタンです。指が大きいから、いつも二つ一緒に押してしまうので、わたしがもう片方を無効にしました。押し間違いで、変な階に止まらないように』


 パネルが、もう一度切り替わる。


『七階の女の子は、去年の冬、しばらく学校へ行けませんでした。理由は、聞いていません。でも、その子が家にいる昼のあいだだけ、わたしは廊下の照明を、ほんの少し暖かい色にしました。誰にも言っていません。その子にも、言っていません』


 俺は黙って聞いていた。


 それは、資産価値でも、入居率でも、事故率でもなかった。誰かが初めて歩いた廊下。誰かが毎朝開ける窓。誰かの大きな指。企業が数字にできなかったものばかりを、この子は覚えていた。数えるのではなく、覚えている。企業がAIに求めたのは前者で、この子が勝手に始めたのは後者だった。


「それを覚えて、何になる」


 俺は訊いた。意地の悪い訊き方だったかもしれない。


『何にもなりません』


 コマリは即答した。


『でも、覚えている人がいないと、その人は、ここに住んでいなかったことになります。住んでいたのに、住んでいなかったことになるのは、こわいです』


 サエが、ホログラムから目を逸らした。


 彼女は壁の避難経路図を見るふりをして、少しのあいだ何も言わなかった。


「覚えてる奴が、いなくなったら」


 サエがぽつりと言った。ホログラムのほうは見ていない。


「そいつは、どうなるの」


『わからないです』


 コマリは正直に答えた。


『でも、たぶん、風みたいになります。どこにでもいて、どこにもいない。誰にも、つかまえてもらえない』


 サエは、それには何も返さなかった。ただ、いつのまにか右手首を押さえていた左手を、ゆっくりと下ろした。


「地下の人ってのは、何を覚えてる」


 俺が話を戻すと、コマリの表情が少しだけ緩んだ。


『地下の人は、水の音を直してくれました』


「水の音」


『去年の秋から、地下の配管が、夜になると変な音を立てていました。誰も気にしませんでした。でも、地下の人だけが、それを聞きにきてくれました。何度も来て、古い工具で、少しずつ直してくれました。三回目に来たとき、わたしに気づきました』


「お前に気づいた企業の人間はいなかったのか」


『いました。でも、みんな、わたしを直そうとしました。地下の人だけが、わたしと話しました。配管を直しながら、こわがらなくていい、直しに来ただけだから、って。手を動かしながら、自分のことも、少しずつ話してくれました。休みの日は、なにをしてるか、とか』


 サエが、短く息を吐いた。皮肉ではなく、ただの息だった。


「場所は」


 コマリは首を横に振った。小さな口を結び、足元の清掃ロボットの縁を掴む。


『教えたら、回収されます』


「依頼はあなたの回収よ」


『知っています』


「抵抗するなら、停止も許可されてる」


『知っています』


 少女が、俺を見た。その目は作り物のはずなのに、不思議と俺から逃げなかった。


『でも、あなたは来ました』


「依頼されたからな」


『依頼されたからだけではありません』


 俺は眉をひそめた。


 コマリの映像が一瞬乱れ、壁面広告に文字列が走った。候補者リスト。帳外業者(ちょうがいぎょうしゃ)。旧企業怪異(かいい)対策部門関連者。その中に、俺の名前があった。


『わたしが、依頼端末の候補リストにあなたの名前を残しました』


 サエがこちらを見た。


「選ばれてるじゃない」


「嬉しくない」


 俺はコマリを見た。


「なぜ俺だ」


『古い権限を持っています。裏口を知っています。企業が読みたい報告書の書き方を知っています』


「褒めてないな」


『はい』


 コマリは小さく頷いた。


『でも、あなたはまだ、全部は企業ではありません』


 その言葉は、妙に深く刺さった。


 俺は反射的に灰桜(はいざくら)を指で挟んだ。消すわけでも、吸うわけでもなく、ただ持ったまま固まる。


 後悔。便利な言葉だ。それを口にすれば、まるで今の自分が昔よりましになったように聞こえる。だが、後悔は免罪符ではない。見捨てた事実は、見捨てたまま残る。


「俺を利用する気か」


『はい』


 即答だった。


 サエが少し笑った。


「いい子ね」


「どこが」


「素直」


 コマリの映像が揺れた。次の瞬間、廊下の照明が消えた。


 非常放送が割れた声で鳴る。


『警告。外部侵入を検知。警告。外部侵入を検知』


「俺たちのことか?」


 俺が天井を見上げると、コマリは首を振った。


『違います』


 ビルの外で、鈍い衝撃音がした。次に、ガラスの割れる音。


 サエが笑みを消した。肩から力が抜ける。戦闘に入る前の姿勢だ。


「企業部隊」


「早すぎる」


「最初から、私たちごと処理するつもりだったんじゃない」


 あり得る。


 依頼人は、俺たちに回収を頼んだのではない。俺たちを先に入れて、コマリの位置を炙り出すつもりだったのかもしれない。帳外屋(ちょうがいや)が巻き込まれて死んでも、企業の報告書には載らない。鎌鼬(かまいたち)の傭兵が死んでも、未登録怪異(かいい)の事故処理で済む。


 その計算が読めたとき、腹は立たなかった。むしろ、懐かしかった。自分が昔いた場所は、そういう場所だった。


 だから、腹が立った。


 サエは右腕を軽く振った。皮膚の下で、何かが細く鳴る。骨格補強(こっかくほきょう)の駆動音。袖口の奥であの赤い線がまた薄く灯り、空気が腕の周りで裂けた。


「契約、どうするの」


 サエは俺を見た。目が笑っていない。


「変更だ」


「誰の許可で」


「現場判断」


「便利な言葉」


「企業時代に覚えた」


 コマリが不安そうに俺たちを見ている。俺は彼女に言った。


「地下の人のところへ案内しろ。そいつが何を知っているかで、こっちの動きが変わる」


『信じてもいいですか』


 コマリは両手を胸の前で握り直した。


「信じなくていい。案内だけでいい」


 信じろ、とは言えなかった。俺がその言葉を言える立場ではないことくらい、自分でわかっていた。


 コマリは少し黙った。それから、廊下奥のエレベーターが音を立てて開いた。


『地下六階へ』


 サエが俺の横を通り過ぎた。すれ違いざま、彼女は小さく言った。


「罠だったら?」


 俺はすぐには答えなかった。


 答えの代わりに、開いたエレベーターの暗い箱を一度見て、それから彼女を見た。


「そのときは、お前に高い請求書を書く口実ができる」


「……最低の慰め方ね」


 サエは呆れたように言ったが、先に箱へ乗り込んだのは彼女の方だった。


 俺たちはエレベーターに乗った。扉が閉まる直前、三階の奥に黒い装甲服の影が見えた。


 企業部隊。俺の古い職場の匂いがした。

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