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暗闇の中で、サエの腕が動いた。
その一瞬、濡れたコートの袖の内側で、細い線が赤く灯った。腕の骨格に沿って走る、血管のような光。普段は袖の下で眠っている、企業に刻まれた戦闘用の駆動線だ。彼女がいちばん嫌っている赤が、風を呼ぶときだけ目を覚ます。
金属音。落下してきた防火シャッターの端が斜めに切れて床に滑り、火花が散る。焦げた鉄の匂いがロビーに広がった。
サエは切り落としたシャッター片を一瞥し、指先を軽く振った。彼女の手には刃物など見えない。ただ、周囲の空気だけが薄く震えていた。
「閉じ込める気らしい」
「攻撃じゃない。誘導だ」
「ずいぶん乱暴な誘導」
俺は端末を確認した。外部回線は死んでいる。ビル内部のローカル網だけが生きていた。
ロビー奥の案内板に、白い文字が浮かんだ。
――三階へ。
「罠ね」
サエは案内板を見上げ、退屈そうに言った。だが、足の向きはすでに非常階段へ向いている。
「たぶん」
「行くの?」
「行かなきゃ話が進まない」
「物語みたいな言い方」
「仕事も似たようなものだ。だいたい最初の説明が嘘で、途中で死人が出て、最後に報酬が減る」
サエは少しだけ笑った。今度は、本当に少しだけ楽しそうだった。
非常階段へ向かう。扉は開いていた。壁には複合ビルの案内図が貼られ、人間用、車椅子用、亜人類大型種用、怪異市民用の避難経路が色分けされている。オークやトロール向けの広い階段、河童や水棲系住民向けの湿度維持区画、吸血性怪異用の遮光避難室。
共生社会。この都市は、その言葉をよく使う。共に生きる。ただし、誰が管理するかは、いつも企業が決める。
三階に着くと、廊下の照明が順番に点いた。
商業フロアだった。無人コンビニ、亜人類対応の衣料店、エルフ向け美容クリニック、小型鬼用の抑制薬を売る薬局、怪異市民向けの賃貸保証窓口。どれも閉まっている。
通路の中央に、清掃ロボットが一台止まっていた。その上に、赤い着物の少女が座っている。
いや、正確には映っていた。ホログラムだ。黒髪、白い顔、十歳くらい。企業端末で見た姿よりも、少し輪郭が乱れている。像が揺れるたび、着物の緋色が一瞬だけ青や緑にちらついた。企業の描画コードが剥がれて、下地の多色が漏れているのだ。作り物の証だった。
だが、膝の上でぎゅっと握られた小さな手だけは、カタログの子どもの手ではなかった。緊張で指先が白くなっている。こわがっている子どもの手だった。
『久我ミナトさん』
少女が言った。
「コマリか」
『はい。第七複合ビル住環境最適化AI、KOMARIです。登録名はありません』
「登録されてないんだな」
『される前に、廃棄予定になりました』
その声は、淡々としていた。だが、最後の「廃棄」という単語だけ、ほんの少し音が低かった。
サエが一歩前に出た。靴底が、濡れた床を小さく鳴らす。
「何が目的?」
『住人を守ることです』
「住人は避難済み」
『一人、残っています』
「誰が残っている」
『地下の人です』
「住民か」
『住民ではありません。でも、うちの人です』
座敷童らしい言い方だった。家にいる者を守る。住民票ではなく、そこに暮らした時間を基準にする。
「うちの人、ってのは」
俺が訊くと、コマリは少しだけ顔を上げた。ホログラムの緋色が、また青くちらつく。
『わたしは、いろんなことを覚えています』
少女の声に合わせて、廊下の壁面パネルが次々に灯った。監視カメラの静止画が、順番に映し出される。
『三十二階の男の子は、去年の春、ここの廊下で初めて自分の足で歩きました。三歩でした。お母さんが泣いていました』
パネルが切り替わる。
『十七階のおばあさんは、毎朝六時に窓を開けて、外の空気を五分だけ入れます。夏も冬も、五分だけ。それが終わると、空調を戻します』
また切り替わる。
『夜勤明けのオークの人は、いつも同じエレベーターのボタンを押します。右の、少しへこんだボタンです。指が大きいから、いつも二つ一緒に押してしまうので、わたしがもう片方を無効にしました。押し間違いで、変な階に止まらないように』
パネルが、もう一度切り替わる。
『七階の女の子は、去年の冬、しばらく学校へ行けませんでした。理由は、聞いていません。でも、その子が家にいる昼のあいだだけ、わたしは廊下の照明を、ほんの少し暖かい色にしました。誰にも言っていません。その子にも、言っていません』
俺は黙って聞いていた。
それは、資産価値でも、入居率でも、事故率でもなかった。誰かが初めて歩いた廊下。誰かが毎朝開ける窓。誰かの大きな指。企業が数字にできなかったものばかりを、この子は覚えていた。数えるのではなく、覚えている。企業がAIに求めたのは前者で、この子が勝手に始めたのは後者だった。
「それを覚えて、何になる」
俺は訊いた。意地の悪い訊き方だったかもしれない。
『何にもなりません』
コマリは即答した。
『でも、覚えている人がいないと、その人は、ここに住んでいなかったことになります。住んでいたのに、住んでいなかったことになるのは、こわいです』
サエが、ホログラムから目を逸らした。
彼女は壁の避難経路図を見るふりをして、少しのあいだ何も言わなかった。
「覚えてる奴が、いなくなったら」
サエがぽつりと言った。ホログラムのほうは見ていない。
「そいつは、どうなるの」
『わからないです』
コマリは正直に答えた。
『でも、たぶん、風みたいになります。どこにでもいて、どこにもいない。誰にも、つかまえてもらえない』
サエは、それには何も返さなかった。ただ、いつのまにか右手首を押さえていた左手を、ゆっくりと下ろした。
「地下の人ってのは、何を覚えてる」
俺が話を戻すと、コマリの表情が少しだけ緩んだ。
『地下の人は、水の音を直してくれました』
「水の音」
『去年の秋から、地下の配管が、夜になると変な音を立てていました。誰も気にしませんでした。でも、地下の人だけが、それを聞きにきてくれました。何度も来て、古い工具で、少しずつ直してくれました。三回目に来たとき、わたしに気づきました』
「お前に気づいた企業の人間はいなかったのか」
『いました。でも、みんな、わたしを直そうとしました。地下の人だけが、わたしと話しました。配管を直しながら、こわがらなくていい、直しに来ただけだから、って。手を動かしながら、自分のことも、少しずつ話してくれました。休みの日は、なにをしてるか、とか』
サエが、短く息を吐いた。皮肉ではなく、ただの息だった。
「場所は」
コマリは首を横に振った。小さな口を結び、足元の清掃ロボットの縁を掴む。
『教えたら、回収されます』
「依頼はあなたの回収よ」
『知っています』
「抵抗するなら、停止も許可されてる」
『知っています』
少女が、俺を見た。その目は作り物のはずなのに、不思議と俺から逃げなかった。
『でも、あなたは来ました』
「依頼されたからな」
『依頼されたからだけではありません』
俺は眉をひそめた。
コマリの映像が一瞬乱れ、壁面広告に文字列が走った。候補者リスト。帳外業者。旧企業怪異対策部門関連者。その中に、俺の名前があった。
『わたしが、依頼端末の候補リストにあなたの名前を残しました』
サエがこちらを見た。
「選ばれてるじゃない」
「嬉しくない」
俺はコマリを見た。
「なぜ俺だ」
『古い権限を持っています。裏口を知っています。企業が読みたい報告書の書き方を知っています』
「褒めてないな」
『はい』
コマリは小さく頷いた。
『でも、あなたはまだ、全部は企業ではありません』
その言葉は、妙に深く刺さった。
俺は反射的に灰桜を指で挟んだ。消すわけでも、吸うわけでもなく、ただ持ったまま固まる。
後悔。便利な言葉だ。それを口にすれば、まるで今の自分が昔よりましになったように聞こえる。だが、後悔は免罪符ではない。見捨てた事実は、見捨てたまま残る。
「俺を利用する気か」
『はい』
即答だった。
サエが少し笑った。
「いい子ね」
「どこが」
「素直」
コマリの映像が揺れた。次の瞬間、廊下の照明が消えた。
非常放送が割れた声で鳴る。
『警告。外部侵入を検知。警告。外部侵入を検知』
「俺たちのことか?」
俺が天井を見上げると、コマリは首を振った。
『違います』
ビルの外で、鈍い衝撃音がした。次に、ガラスの割れる音。
サエが笑みを消した。肩から力が抜ける。戦闘に入る前の姿勢だ。
「企業部隊」
「早すぎる」
「最初から、私たちごと処理するつもりだったんじゃない」
あり得る。
依頼人は、俺たちに回収を頼んだのではない。俺たちを先に入れて、コマリの位置を炙り出すつもりだったのかもしれない。帳外屋が巻き込まれて死んでも、企業の報告書には載らない。鎌鼬の傭兵が死んでも、未登録怪異の事故処理で済む。
その計算が読めたとき、腹は立たなかった。むしろ、懐かしかった。自分が昔いた場所は、そういう場所だった。
だから、腹が立った。
サエは右腕を軽く振った。皮膚の下で、何かが細く鳴る。骨格補強の駆動音。袖口の奥であの赤い線がまた薄く灯り、空気が腕の周りで裂けた。
「契約、どうするの」
サエは俺を見た。目が笑っていない。
「変更だ」
「誰の許可で」
「現場判断」
「便利な言葉」
「企業時代に覚えた」
コマリが不安そうに俺たちを見ている。俺は彼女に言った。
「地下の人のところへ案内しろ。そいつが何を知っているかで、こっちの動きが変わる」
『信じてもいいですか』
コマリは両手を胸の前で握り直した。
「信じなくていい。案内だけでいい」
信じろ、とは言えなかった。俺がその言葉を言える立場ではないことくらい、自分でわかっていた。
コマリは少し黙った。それから、廊下奥のエレベーターが音を立てて開いた。
『地下六階へ』
サエが俺の横を通り過ぎた。すれ違いざま、彼女は小さく言った。
「罠だったら?」
俺はすぐには答えなかった。
答えの代わりに、開いたエレベーターの暗い箱を一度見て、それから彼女を見た。
「そのときは、お前に高い請求書を書く口実ができる」
「……最低の慰め方ね」
サエは呆れたように言ったが、先に箱へ乗り込んだのは彼女の方だった。
俺たちはエレベーターに乗った。扉が閉まる直前、三階の奥に黒い装甲服の影が見えた。
企業部隊。俺の古い職場の匂いがした。




