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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一話 座敷童はビルを出ない

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3/15

1-3

 湾岸第七複合ビルの前には、警備ドローンが三機落ちていた。


 どれも外装に目立った傷はない。胴体も、カメラも、武装ユニットも無事だ。ただし、ローターだけが、刃物で撫でたように綺麗に切り落とされていた。


 雨は強くなっていた。高層ビルの谷間を抜ける風が、濡れた路面を低く鳴らしている。企業ロゴのネオンが水たまりに揺れ、無人タクシーの列が封鎖線の向こうを黙って通り過ぎていく。


 ビルの正面玄関の前に、女が立っていた。


 濡れた黒のショートコート。雨に張りついた黒髪の隙間から、色の薄い灰色の目がのぞいている。肌は夜の底のように白く、頬に血の気はない。細いが、痩せているのとは違う。無駄を削ぎ落として研ぎ上げた刃物のような、硬い細さだった。手には何も持っていない。ただ、彼女の周りだけ、雨粒が少し細かく裂けていた。


 コートの袖は手首まで長い。その下に何が仕込まれているのか、俺は一度も見たことがない。見せてもらえるような仲でもなかった。


 伊吹(いぶき)サエ。鎌鼬(かまいたち)。本人はそう分類されるのを嫌う。


「早いな」


 俺が言うと、サエは足元のドローンをつま先で軽く蹴った。残骸が、濡れた路面を数センチ滑る。


「遅いのは嫌い」


 サエは俺を見ずに答えた。前髪から落ちた雨粒が頬を伝ったが、拭おうともしない。


「壊すなと言ったはずだ」


「壊してない。飛べなくしただけ」


「企業はそれを壊したと言う」


 サエはそれには答えなかった。


 代わりに、切り落としたローターの一枚を爪先で裏返し、断面をしばらく眺めていた。自分の仕事の出来を確かめるような、それとも別の何かを思い出すような、読みにくい横顔だった。


 やがて、彼女は興味をなくしたように顔を上げた。


「今回の対象は」


座敷童(ざしきわらし)型の管理AIだ」


「聞いた。子どもでしょ」


 サエは、ガラス壁を流れる広告の中の赤い着物の少女を、ちらりと見た。眉が少しだけ寄る。


「見た目は」


「見た目が子どもなら、だいたい面倒」


「偏見か」


「経験」


 短く言って、サエは自動ドアに近づいた。


 扉は開かない。


 ガラスの向こうは暗かった。低層階のロビーには、受付カウンター、無人案内端末、壁面緑化、神祇庁(じんぎちょう)監修の小さな注連縄(しめなわ)飾りが見える。いかにも企業が考えた、安全な共生の風景だ。


 俺は端末を出し、依頼人から渡された一時認証を流した。


 拒否。


 予想通りだった。


「入れない?」


 サエは首だけをこちらに向けた。退屈そうな声だが、目は周囲の監視カメラを数えている。


「表口からはな」


 俺は灰桜(はいざくら)を一本くわえた。フィルターを噛む。青い光。肺には入れず、口の中に霧を溜める。怪異(かいい)現場用の霊素(れいそ)安定剤は、ほんのわずかに場の歪みに反応する。


 吐いた霧は、雨の中でまっすぐ流れなかった。自動ドアの右端、植え込みの奥で、細く巻いた。


「非常用の手動端子がある」


「見えるの」


「煙が教えてくれる」


「便利な煙草」


「体には悪い」


「知ってるならやめれば」


「やめる理由が、まだ弱い」


 サエはつまらなそうに鼻を鳴らした。けれど、その視線は一瞬だけ俺の指先と煙草に落ちた。呆れと、ほんの少しの心配。その両方を、彼女はすぐに雨の中へ捨てた。


 俺は植え込みの下に手を入れた。冷たい金属に指が触れる。古い手動端子。図面には載っていない。企業怪異(かいい)対策部門だけが、怪異(かいい)制圧時の緊急侵入に使う裏口だ。


 退職したはずの人間が、まだ使えてはいけないものだった。


 指先が、端子の形を覚えていた。嫌になる。頭で思い出すより先に、手が動く。この手は、俺が忘れたいことを、いつまでも律儀に覚えている。


 端子に旧式のアクセスキーを差し込む。一秒、二秒。


 認証。


 自動ドアが、音もなく開いた。


 サエが横目で俺を見た。唇の端が少し歪む。


「元企業の犬って便利ね」


「犬は、首輪が外れても道を覚えてる」


「噛む相手も?」


 サエはドアの奥の暗闇を見たまま訊いた。


「相手による」


 ロビーに入ると、空気が変わった。


 外の雨音が消え、代わりに、ビル全体が息を潜めているような低い振動が耳に届いた。非常灯が赤く点滅している。受付の無人端末は電源が入っておらず、エスカレーターも停止していた。床には、避難時に落とされた紙袋と、子ども用の靴が片方だけ転がっている。


 俺は靴を見る前に、近くの壁面端末へ指を伸ばした。


 避難誘導ログは、まだ消されていなかった。


 発行者欄に表示されていた名前は、八洲都市開発(やしまとしかいはつ)でも、防災センターでも、警備部でもない。


 KOMARI。


 その名前が、細い文字で何度も並んでいた。


 ログを追うと、避難の手順がやけに細かいことに気づく。車椅子の住民には低層階の緩勾配(かんこうばい)ルートが開かれ、大型亜人(あじん)用の非常階段は通常より早く解錠されていた。水棲(すいせい)区画では避難完了まで湿度維持が切られておらず、小さな子どもを連れた世帯には音声案内の速度が落とされている。夜勤明けのオークにはまぶしすぎない低照度の帰宅導線が、小柄なドワーフの老夫婦には手すり付きの旧式階段が、それぞれ指定されていた。


 項目のひとつに、俺は指を止めた。二十二時四十分、三十二階、避難最終確認。備考欄に、こう書かれている。「シールを剥がさないよう、壁面清掃を停止」。


 子どもが壁に貼ったシールを、避難のどさくさで剥がしてしまわないように、清掃ロボットを止めていた。逃げる手順の中で、そんなことまで気にするAIがどこにいる。


 暴走したAIにしては、避難の手順が丁寧すぎる。


 家を閉じたのではない。先に、家の中の者を外へ出したのだ。しかも、一人ずつ、その体と暮らしに合わせて。


 サエが靴を見た。


 彼女はすぐには何も言わなかった。しゃがむことも、拾うこともしない。ただ、視線だけがその小さな靴に長く留まった。


「住民は避難済みって話じゃなかった?」


「そういう話だった」


「誰が避難させたの」


 俺は壁面端末の表示を消した。


「少なくとも、企業じゃない」


「じゃあ、あの子?」


「たぶんな」


 サエの目が、少しだけ細くなる。


「暴走AIにしては、いい子じゃない」


「いい子を作ろうとしたわけじゃないんだろう」


「企業はいつもそう。欲しいものと、できあがったものが違う」


 そのとき、天井のスピーカーから音がした。


 小さなノイズ。それから、子どもの声。


『おかえりなさい』


 俺とサエは、同時に立ち止まった。


 ロビー奥の監視カメラが、一台だけこちらを向いていた。


『あなたは、住人ではありません』


 声は礼儀正しかった。だが、少しだけ震えていた。


久我(くが)ミナトだ。依頼を受けて来た」


 俺は両手を下げたまま言った。武器を抜く気はない、と見せるためだ。


『知っています』


「なら話が早い」


『早くありません』


 ロビーの壁面広告が切り替わる。


 映ったのは、古い映像だった。黒い装甲服。企業怪異(かいい)対策部門の制圧班。廊下に伏せる小さな影。泣いている誰かの声。モザイクの入った記録映像。


 俺は煙草の箱を握りしめた。指先に力が入り、薄いケースがかすかに軋む。喉の奥に、灰桜(はいざくら)の苦味が戻ってくる。


 映像そのものに覚えはない。だが、構図には覚えがあった。白い廊下、黒い装甲、小さな影、泣き声。報告書では、そういうものはすべて「対象」と呼ばれる。名前を呼ばなければ、ためらわずに済む。そう教わった。


 サエの目が細くなった。彼女は映像と俺の顔を交互に見たが、すぐには何も言わなかった。


「知り合い?」


「知らない」


 俺はそう答えた。声が自分で思ったより硬かった。


『あなたは、回収する人です』


 スピーカーの声が言った。


『こわい人です』


 非常灯が一斉に消えた。


 次の瞬間、シャッターが落ちた。

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