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湾岸第七複合ビルの前には、警備ドローンが三機落ちていた。
どれも外装に目立った傷はない。胴体も、カメラも、武装ユニットも無事だ。ただし、ローターだけが、刃物で撫でたように綺麗に切り落とされていた。
雨は強くなっていた。高層ビルの谷間を抜ける風が、濡れた路面を低く鳴らしている。企業ロゴのネオンが水たまりに揺れ、無人タクシーの列が封鎖線の向こうを黙って通り過ぎていく。
ビルの正面玄関の前に、女が立っていた。
濡れた黒のショートコート。雨に張りついた黒髪の隙間から、色の薄い灰色の目がのぞいている。肌は夜の底のように白く、頬に血の気はない。細いが、痩せているのとは違う。無駄を削ぎ落として研ぎ上げた刃物のような、硬い細さだった。手には何も持っていない。ただ、彼女の周りだけ、雨粒が少し細かく裂けていた。
コートの袖は手首まで長い。その下に何が仕込まれているのか、俺は一度も見たことがない。見せてもらえるような仲でもなかった。
伊吹サエ。鎌鼬。本人はそう分類されるのを嫌う。
「早いな」
俺が言うと、サエは足元のドローンをつま先で軽く蹴った。残骸が、濡れた路面を数センチ滑る。
「遅いのは嫌い」
サエは俺を見ずに答えた。前髪から落ちた雨粒が頬を伝ったが、拭おうともしない。
「壊すなと言ったはずだ」
「壊してない。飛べなくしただけ」
「企業はそれを壊したと言う」
サエはそれには答えなかった。
代わりに、切り落としたローターの一枚を爪先で裏返し、断面をしばらく眺めていた。自分の仕事の出来を確かめるような、それとも別の何かを思い出すような、読みにくい横顔だった。
やがて、彼女は興味をなくしたように顔を上げた。
「今回の対象は」
「座敷童型の管理AIだ」
「聞いた。子どもでしょ」
サエは、ガラス壁を流れる広告の中の赤い着物の少女を、ちらりと見た。眉が少しだけ寄る。
「見た目は」
「見た目が子どもなら、だいたい面倒」
「偏見か」
「経験」
短く言って、サエは自動ドアに近づいた。
扉は開かない。
ガラスの向こうは暗かった。低層階のロビーには、受付カウンター、無人案内端末、壁面緑化、神祇庁監修の小さな注連縄飾りが見える。いかにも企業が考えた、安全な共生の風景だ。
俺は端末を出し、依頼人から渡された一時認証を流した。
拒否。
予想通りだった。
「入れない?」
サエは首だけをこちらに向けた。退屈そうな声だが、目は周囲の監視カメラを数えている。
「表口からはな」
俺は灰桜を一本くわえた。フィルターを噛む。青い光。肺には入れず、口の中に霧を溜める。怪異現場用の霊素安定剤は、ほんのわずかに場の歪みに反応する。
吐いた霧は、雨の中でまっすぐ流れなかった。自動ドアの右端、植え込みの奥で、細く巻いた。
「非常用の手動端子がある」
「見えるの」
「煙が教えてくれる」
「便利な煙草」
「体には悪い」
「知ってるならやめれば」
「やめる理由が、まだ弱い」
サエはつまらなそうに鼻を鳴らした。けれど、その視線は一瞬だけ俺の指先と煙草に落ちた。呆れと、ほんの少しの心配。その両方を、彼女はすぐに雨の中へ捨てた。
俺は植え込みの下に手を入れた。冷たい金属に指が触れる。古い手動端子。図面には載っていない。企業怪異対策部門だけが、怪異制圧時の緊急侵入に使う裏口だ。
退職したはずの人間が、まだ使えてはいけないものだった。
指先が、端子の形を覚えていた。嫌になる。頭で思い出すより先に、手が動く。この手は、俺が忘れたいことを、いつまでも律儀に覚えている。
端子に旧式のアクセスキーを差し込む。一秒、二秒。
認証。
自動ドアが、音もなく開いた。
サエが横目で俺を見た。唇の端が少し歪む。
「元企業の犬って便利ね」
「犬は、首輪が外れても道を覚えてる」
「噛む相手も?」
サエはドアの奥の暗闇を見たまま訊いた。
「相手による」
ロビーに入ると、空気が変わった。
外の雨音が消え、代わりに、ビル全体が息を潜めているような低い振動が耳に届いた。非常灯が赤く点滅している。受付の無人端末は電源が入っておらず、エスカレーターも停止していた。床には、避難時に落とされた紙袋と、子ども用の靴が片方だけ転がっている。
俺は靴を見る前に、近くの壁面端末へ指を伸ばした。
避難誘導ログは、まだ消されていなかった。
発行者欄に表示されていた名前は、八洲都市開発でも、防災センターでも、警備部でもない。
KOMARI。
その名前が、細い文字で何度も並んでいた。
ログを追うと、避難の手順がやけに細かいことに気づく。車椅子の住民には低層階の緩勾配ルートが開かれ、大型亜人用の非常階段は通常より早く解錠されていた。水棲区画では避難完了まで湿度維持が切られておらず、小さな子どもを連れた世帯には音声案内の速度が落とされている。夜勤明けのオークにはまぶしすぎない低照度の帰宅導線が、小柄なドワーフの老夫婦には手すり付きの旧式階段が、それぞれ指定されていた。
項目のひとつに、俺は指を止めた。二十二時四十分、三十二階、避難最終確認。備考欄に、こう書かれている。「シールを剥がさないよう、壁面清掃を停止」。
子どもが壁に貼ったシールを、避難のどさくさで剥がしてしまわないように、清掃ロボットを止めていた。逃げる手順の中で、そんなことまで気にするAIがどこにいる。
暴走したAIにしては、避難の手順が丁寧すぎる。
家を閉じたのではない。先に、家の中の者を外へ出したのだ。しかも、一人ずつ、その体と暮らしに合わせて。
サエが靴を見た。
彼女はすぐには何も言わなかった。しゃがむことも、拾うこともしない。ただ、視線だけがその小さな靴に長く留まった。
「住民は避難済みって話じゃなかった?」
「そういう話だった」
「誰が避難させたの」
俺は壁面端末の表示を消した。
「少なくとも、企業じゃない」
「じゃあ、あの子?」
「たぶんな」
サエの目が、少しだけ細くなる。
「暴走AIにしては、いい子じゃない」
「いい子を作ろうとしたわけじゃないんだろう」
「企業はいつもそう。欲しいものと、できあがったものが違う」
そのとき、天井のスピーカーから音がした。
小さなノイズ。それから、子どもの声。
『おかえりなさい』
俺とサエは、同時に立ち止まった。
ロビー奥の監視カメラが、一台だけこちらを向いていた。
『あなたは、住人ではありません』
声は礼儀正しかった。だが、少しだけ震えていた。
「久我ミナトだ。依頼を受けて来た」
俺は両手を下げたまま言った。武器を抜く気はない、と見せるためだ。
『知っています』
「なら話が早い」
『早くありません』
ロビーの壁面広告が切り替わる。
映ったのは、古い映像だった。黒い装甲服。企業怪異対策部門の制圧班。廊下に伏せる小さな影。泣いている誰かの声。モザイクの入った記録映像。
俺は煙草の箱を握りしめた。指先に力が入り、薄いケースがかすかに軋む。喉の奥に、灰桜の苦味が戻ってくる。
映像そのものに覚えはない。だが、構図には覚えがあった。白い廊下、黒い装甲、小さな影、泣き声。報告書では、そういうものはすべて「対象」と呼ばれる。名前を呼ばなければ、ためらわずに済む。そう教わった。
サエの目が細くなった。彼女は映像と俺の顔を交互に見たが、すぐには何も言わなかった。
「知り合い?」
「知らない」
俺はそう答えた。声が自分で思ったより硬かった。
『あなたは、回収する人です』
スピーカーの声が言った。
『こわい人です』
非常灯が一斉に消えた。
次の瞬間、シャッターが落ちた。




