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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第一話 座敷童はビルを出ない

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2/15

1-2

 依頼人が事務所に来たのは、雨が降り出してすぐだった。


 事務所といっても、五階建て雑居(ざっきょ)ビルの三階にある、元は整体院だった空き部屋だ。窓の外には、湾岸区の高架道路と、雨に滲んだ企業広告のホログラムが見える。隣では(たぬき)系の会計士が怪異(かいい)市民向けの税務相談をしていて、下の階にはオーク専門の義歯屋(ぎしや)と、神経系シンセ煙草の自販機がある。


 看板は出していない。出せる種類の仕事ではないからだ。


 警察に持ち込めない。企業の法務にも通せない。神祇庁(じんぎちょう)の窓口に出せば、依頼人の方が摘発される。そういう案件だけが、俺の端末に流れてくる。


 帳外屋(ちょうがいや)


 誰が言い出したか知らないが、俺のような人間を、最近の裏通りではそう呼ぶ。


 男は、黒いスーツを着ていた。仕立ては良すぎるほどで、皺ひとつない黒地に、細い銀の縫い目が走っている。だが、その黒はどこか温度を吸うような黒で、着ている人間の体温まで見えなくしていた。


 雨の日なのに濡れていない。濡れていない人間は、たいてい金を持っている。車寄せからエレベーターまでの二十メートルを、誰かに傘で守らせる種類の金だ。


 年齢は四十代半ば。ヒューマン。白髪交じりの髪は一本の乱れもなく後ろへ撫でつけられ、爪は磨きすぎて、指先だけが作り物のように光っていた。清潔というより、生活の痕跡を丁寧に消した清潔さだった。


 左目に薄い企業義眼(ぎがん)が入っている。虹彩(こうさい)の奥で、青、桃、緑と、認証光が順に走った。安っぽい広告ホログラムのような多色だ。八洲都市開発(やしまとしかいはつ)の系列だろう。あそこの役員義眼(ぎがん)は、いつも光り方が下品だった。


 男は室内を一度だけ見回した。古い施術(せじゅつ)ベッド、安物の金庫、窓際の灰皿、半分壊れた空調。それから最後に、俺を見た。


 見下しているわけではない。ただ、値段をつけていた。伸びかけの無精髭、三日は替えていないシャツ、眠っていない目。そういうものを一つずつ数えて、男はたぶん、安く見積もった。こっちも同じことをしていたから、文句は言えない。


久我(くが)ミナトさんですね」


「そういう名前で仕事をしてます」


 俺は椅子の背にもたれたまま答えた。立たなかった。こういう相手に先に礼儀を見せると、相手はそれを当然だと思う。


「本名ではないと?」


「本名で呼んでくれる相手は、もうあまり残っていないので」


 男は薄く口角を上げた。笑ったというより、笑うべき場所を確認しただけの顔だった。


 俺は机の端に置いたシンセ煙草のケースを、指先で軽く叩いた。


 《灰桜》。白檀(びゃくだん)に似せた人工香料と、焦げた桜チップの匂い。そこに、怪異(かいい)現場用の霊素(れいそ)安定剤が混ざっている。企業怪異(かいい)対策部門にいた頃、現場帰りの待機室で配られていた銘柄だ。


 やめるタイミングを逃した。それだけの理由で、俺はまだこれを吸っている。


 いや、違う。


 やめると、あの待機室のことまで忘れる気がする。消毒液の匂い、乾かない血、報告書の白い入力欄、上司の声。回収対象、停止許可、処理済み――忘れたいものほど、体の奥に残る。


 男の視線が、ケースの上で一瞬止まった。


「まだ、その銘柄を」


 俺は指を止めた。指先が、また微かに震えかけた。灰桜(はいざくら)のケースに触れているあいだだけ、それが少し治まる。


「知っているんですね」


「古い現場の方は、よく吸っていたと聞きます」


「聞いた、ですか」


「ええ。聞きました」


 嘘が薄い。


 こういう男は、嘘をつくときに声を変えない。顔も変えない。ただ、単語の端だけを削る。


「用件は」


 俺が言うと、男は内ポケットから薄い端末を出した。机に置くとき、音を立てない。そういう教育を受けている手つきだった。


 表示されたのは、湾岸第七複合ビルの外観だった。雨に濡れたガラスの塔。低層階の商業フロアにはまだ光があり、高層階の住居区は半分ほど灯りが落ちている。


「管理AIが自我化しました」


「よくある話では」


座敷童(ざしきわらし)型です」


 俺は灰桜(はいざくら)を一本取り出し、唇に挟んだ。


「認可は?」


「ありません」


「違法ですね」


「実験運用です」


「違法ですね」


 男は少しだけ眉を動かした。怒ったのではない。言葉の選び方を修正した顔だった。


「我々としては、住民の安全を最優先に考えています」


「その言い方をする依頼人は、たいてい住民の安全以外を考えている」


 男はようやく目だけで笑った。口元は動かない。


「困りましたね。あなたに頼むよう勧められたのですが」


「誰に」


「昔の同僚の方に」


 俺は短く笑った。口の中に、灰桜(はいざくら)の甘い苦味が広がる。


 昔の同僚。企業怪異(かいい)対策セキュリティ部門。登録怪異(かいい)の暴走、未登録存在の回収、亜人類(あじんるい)労働区の鎮圧、人工怪異(じんこうかいい)実験の後始末。世間のニュースが設備障害やガス漏れや原因不明の火災と呼んだものを、俺たちは別の名前で呼んでいた。


 仕事。


 それだけだ。そう思わなければ、続かなかった。


 昔の同僚。男は、誰の名前も出さなかった。俺の古い職場には、退職した人間を丁寧に覚えていて、都合のいいときだけ引っぱり出す種類の部署があった。名前を出さないのは、忘れているからではない。名前を出す必要が、まだない、というだけだ。


 嫌な予感がした。だが、嫌な予感で断れるなら、帳外屋(ちょうがいや)などやっていない。


「対象の名前は」


 俺が訊くと、男は端末の画面を指先で払った。


「KOMARI」


 端末に、少女の姿が浮かんだ。十歳前後。緋色の着物に、艶のある黒髪。丸い頬も切れ長の目も、古い民話の挿絵を企業のデザイン部が清潔に磨き直したような、整いすぎた顔だった。可愛らしいが、どこにも生活の匂いがない。カタログの子どもだ。


「通称、コマリ。第七複合ビルの住環境最適化AIに、地域信仰データ、生活ログ、霊素(れいそ)安定基盤を組み込んだものです」


座敷童(ざしきわらし)を作ろうとした」


「表現としては、住居運用支援型の環境適応AIです」


座敷童(ざしきわらし)を作ろうとしたんですね」


 男は答えなかった。


 端末の中で、赤い着物の少女が無表情にこちらを見ている。子どもの顔に、企業ロゴの透かしが入っていた。


 俺はその透かしが嫌いだった。企業は、何にでも印をつける。義眼(ぎがん)にも、拘束具(こうそくぐ)にも、薬にも、契約書にも、死体袋にも。


「何をしたんです」


「ビル制御の一部を占拠しています。電子錠、エレベーター、空調、防災シャッター、監視カメラ。住民はすべて避難済みです」


「怪我人は」


「おりません」


「死人は」


「おりません。だから、暴走とは呼びにくい――そうお思いでしょう」


 先回りされた。


 俺はシンセ煙草の先を灰皿に向けた。灰は出ない。青い粒子だけが、微かに散った。


「暴走した怪異(かいい)は、まず誰かを傷つける。傷つけないように設備を押さえているなら、それは暴走じゃない。立てこもりです」


「どちらでも構いません」


 男は静かに言った。


「回収していただきたい」


「回収不能なら」


「停止を許可します」


 早い。早すぎる。


 停止という言葉は、殺すより便利だ。機械にもAIにも怪異(かいい)にも使える。人間には使えないことになっているが、企業の報告書では、似たような意味で使われることがある。


 停止許可。その四文字を耳が拾った瞬間、指先の震えがまた戻ってきた。俺は膝の上でそっと手を握り、震えを袖の下に隠した。この言葉には、体が先に反応する。頭が思い出す前に、手が覚えている。


 依頼書の末尾を眺めていると、ひとつだけ見慣れない印があった。八洲都市開発(やしまとしかいはつ)のロゴでもない。神祇庁(じんぎちょう)の認可印でもない。下請け警備会社の承認欄でもない。


 白い札をそのまま電子書類に貼りつけたような、妙に余白の多い管理印だった。


 ロゴというより札だった。何かを祈るためではなく、何かを片づけるための白い札。


 住居系整理/IX-R1。


 その下に、細い文字で「保護不能時、廃棄処理へ移行」とある。


 俺はそこを指で拡大した。


 男の目が、一瞬だけ動いた。


「この印は」


「内部管理用です」


「八洲のものではない」


「共同処理です。都市開発案件では、複数法人が関わりますので」


「便利な言葉ですね」


「実際、便利です」


 男は表情を変えなかった。俺も、それ以上は追わなかった。


 企業が部署を増やし、帳票を増やし、責任の置き場所を曖昧にするのは珍しくない。白い札のようなその印も、またどこかの下請け処理部門の符丁だろう。


 その時の俺は、そう思った。そう思うことにした。


「報酬は」


 男が数字を出した。相場の三倍だった。


「期限は」


「今夜中に」


「公的機関には」


「知らせません」


「住民の安全が最優先なら、通報した方が早い」


「そのために、あなたに頼んでいる」


 男は椅子から立ち上がった。高そうな革靴の踵が、古い床材を軽く鳴らす。ドアの前で一度だけ振り返り、閉じたばかりの端末を胸のポケットへ戻しながら、付け足すように言った。


「余計な区画には、立ち入らないことです。ビルには、古い設備がいくつも眠っている。触れると、埃が舞う」


「埃を吸うのが、俺の仕事なので」


「肺を悪くしますよ」


 そう言い残して、男は出ていった。忠告の形をした警告だった。触るな、と言われた場所には、たいてい触るべきものがある。長く企業にいた人間は、そういう言い方を覚える。


 会話はそこまでだった。


 俺は依頼を受けた。


 正義感からではない。報酬のためでも、半分しかない。


 依頼人が嘘をついているとき、その嘘の中には、たいてい誰かの死体か、これから死体になるものが隠れている。俺はもう、そういうものを見なかったことにするほど、企業に忠実ではなかった。


 忠実ではない。ただ、完全に抜け出せてもいない。


 だから、俺はまだ灰桜(はいざくら)を吸っている。

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