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八洲基盤管理の管理棟は、地下を扱う会社とは思えないほど清潔だった。
床に泥がない。壁に配管の汗がない。空気に錆の匂いがない。受付ドローンの外装は白く、角は丸く、声は柔らかい。案内表示は青から桃へ、桃から緑へと、安っぽく色を変える。
地下と接しているはずの場所なのに、地下の匂いが一切しない。
その清潔さが、俺の首の裏を撫でた。
待機室。
頭の奥で、古い単語が勝手に開いた。企業にいた頃、現場から戻ると、いつも清潔な部屋へ通された。白い壁。物のない机。感情を消した声。次の回収対象。停止許可。報告書。灰色のファイル。青い認証光。
指が震えた。
俺は灰桜をくわえたまま、火をつけなかった。ここは禁煙だ。だが、くわえているだけで少しだけ手が落ち着く。青い認証光を、指先で確かめる。今はここだ。地下保守会社の管理棟。あの待機室じゃない。
隣でサエが、こちらを見た。
「震えてる」
「空調が悪い」
「嘘が下手」
「今に始まったことじゃない」
サエはそれ以上訊かなかった。
会議室で俺たちを迎えたのは、水城玲司という男だった。
清潔な防水スーツ。汚れない白いブーツ。磨かれた爪。細い眼鏡。襟元の社章は、身じろぎするたびに青、桃、緑へと色を変えた。損失や事故率は数えられても、泥水の中で誰が足を取られるかまでは、数えたことがない顔だった。
だが、悪人には見えなかった。それが、いつも厄介だった。
「地下保守網の更新について、ご心配をおかけしているようですね」
水城は穏やかに言った。
「心配ではない。怒っとる」
ガンテツが言う。
水城は眉ひとつ動かさなかった。
「樫森さん、あなた方の貢献は理解しています。ですが、地下作業は危険です。ここ十年で、保守員の負傷件数は増加しています。とくに手動作業中の事故が多い」
壁のディスプレイにグラフが映った。事故件数、重傷率、復旧遅延、保険負担額。数字は整っていた。整いすぎていた。
「新型AI保守網は、地下に人間が降りる必要を減らします。排水異常は自動検知。電源障害は自動迂回。通信断は自動復旧。危険区画は即時閉鎖。作業ドローンは二十四時間稼働できます」
水城が指を動かすと、ディスプレイに地下の模式図が出た。検知。遮断。迂回。復旧。記録。矢印は美しかった。無駄がなく、滞りもない。作った人間が、これを描いて気持ちよくなっただろうとわかる図だった。
だが、図面はきれいすぎた。地下の図なのに、泥がなかった。水音がなかった。そこを通る者の足跡がなかった。
「人間が降りない地下を作る。それが、これからの安全です」
水城はそう言った。
正しい。数字の上では、正しい。現場に人が行かなければ、現場で人は死なない。老朽設備を整理し、標準化し、自動化する。何も間違っていない。だから、たちが悪い。
ガンテツはグラフを見上げていた。否定しなかった。
「その数字は正しい」
低く言った。
水城が少しだけ安堵した顔をした。
「では」
「だがな」
ガンテツは、水城の白いブーツを見た。
「人間が降りん地下で、人間が死ぬんだ」
会議室が、少し静かになった。
「どういう意味でしょう」
「図面にない人間は、お前さんのAIには見えん」
「地下に、居住者はいません」
「登録上はな」
「登録されていない存在を、保守計画に含めることはできません」
「なら死んでも数字に入らんか」
水城は、初めて言葉を止めた。すぐに持ち直した。こういう男は、自分の言葉が一瞬止まったことすら、後で議事録から消せる顔をしている。
「誤解しないでください。私は、誰かを死なせたいわけではありません」
「それはわかる」
俺が言った。
水城は俺を見た。
「あんたは、登録されていない誰かを、死なせたことにもできない。数えていないものは、殺しても記録に残らない。あんたのシステムは、そういうふうに、きれいにできてる」
水城の指が、机の上でわずかに止まった。
俺はディスプレイの更新対象一覧を見た。旧式手動バルブ群。旧通信幹線。非常導線。手動排水迂回路。未登録保守口。管理外歩廊。旧式誘導灯。冗長排水管。
その下に、小さな備考欄があった。
管理外生活反応、複数。整理後、所在確認不要。
「この生活反応は」
俺が訊いた。
「誤検知の可能性があります」
「可能性」
「地下には、小型怪異反応、漏電、湿度ノイズ、旧式センサーの残留値が多い。すべてを人間として扱うと、保守計画が成立しません」
「人間として扱わなければ、成立する」
水城は答えなかった。
ディスプレイの端に、白い札があった。地下系整理/IX-UG。管理外導線。旧式保守経路。未認証生活反応。整理後、所在確認不要。
俺は、それをしばらく見ていた。住居。記録。道路。労働。人格。片づける対象が違うだけで、白さはいつも同じだった。そして今度は、地下だった。
ガンテツの拳が、机の上でわずかに握られた。指の関節に残る古い傷が白くなる。
管理外生活反応、複数。整理後、所在確認不要。
地下に、人がいる。




