7-2
その日の午後、俺の事務所にドワーフが来た。
ドワーフは背が低い。だが、小さいとは限らない。少なくとも、樫森ガンテツは小さくなかった。
ドアを潜った瞬間、事務所の空気が少し沈んだ。体重のせいだけではない。地下水、錆、油、焦げた配線、古い工具箱の匂いを、一人でまとめて持ち込んできたからだ。
ずんぐりした体格。太い腕。工具で潰れた指。髭には金属粉が絡み、眉には錆色の水滴が乾いた跡がある。作業着は地下水で濡れていたが、不潔ではなかった。汚れたまま、きちんと手入れされている。古いが、死んではいない。持ち主にまだ必要とされている道具の顔だった。
ヘルメットの側面に、小さな保安灯がついていた。黄色く濁った古い光だ。広告ホログラムの青や桃や緑とは違う。何十年も地下で点き続けてきた、疲れた色だった。
「久我ミナトか」
「そうです」
「帳外屋だな」
「そう呼ばれています」
「なら、地下も見るか」
挨拶より先にそれだった。
ソファに座っていたサエが、鼻を鳴らした。黒いコートの襟元を、少しだけ上げる。
「濡れた鉄の匂い」
ガンテツはサエを見た。灰色の目と、黒いコートと、袖の奥に隠したものを、一目で値踏みしたらしい。
「鎌鼬か」
「だったら?」
「地下では風が曲がる。刃も曲がる。油断するな」
サエは少しだけ眉を動かした。言い返すかと思ったが、何も言わなかった。忠告が正しかったからだろう。
俺は灰桜を一本くわえた。火はつけない。フィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点いた。
「地下で何が」
「AI保守網への切り替えだ」
ガンテツは、机の上に古い端末と、もっと古い紙の保守帳を置いた。
保守帳は、厚かった。革の表紙は水を吸って歪み、角は丸く潰れている。紙の端には油染みがあり、何度も開かれたページだけが、手の脂で少し黒くなっていた。道具として使われ続けた紙だ。
「八洲基盤管理が、今夜零時に地下保守網を切り替える。新型AIが、排水、通信、電源、非常導線、保守扉、作業ドローンを全部見る」
「便利そうですね」
「便利だ」
即答だった。
「AIが嫌いなんじゃないんですか」
「馬鹿を言うな。腰を痛めたドワーフにとって、自走工具ほどありがたいものはない。若い連中にはAI補助も使わせとる」
その言い方に嘘はなかった。この男は、新しいものを頭から嫌ってはいない。腰の曲がったドワーフに重い弁を回させるより、機械にやらせたほうがいい。それは、彼もわかっている。彼が嫌っているのは、AIではなかった。AIに、地下の何を教え、何を教えないかを決める人間だった。教える者が地下を知らなければ、どれだけ賢い機械も、知らないまま賢くなる。
「では何が問題で」
ガンテツは太い指で、紙の保守帳を叩いた。
「新しいものが悪いんじゃない。古いものを知らん奴が悪い」
その声は低かった。怒鳴ってはいない。だが、地下の奥で古い配管が鳴るような響きがあった。
「図面にないバルブがある。台帳にない通信線がある。停電した時だけ生きる誘導灯がある。水位がある高さを越えた時だけ開けてはいけない排水口がある。理由は、昔そこで人が死んだからだ」
俺は保守帳を開いた。小さな字がびっしり並んでいる。日付、区画、バルブ番号、水位、音、匂い、作業員名、事故、対応。整ってはいない。だが、乱れてもいない。読みやすい字ではないが、読む者が読めばわかる形に、何十年分もの地下が閉じ込められていた。
「これは、いつから」
「三十七年前」
「何があったんです」
ガンテツの太い指が、保守帳の端を押さえた。
「図面を信じた」
それだけ言って、少し黙った。
「若いころだ。上から、新しい図面が降りてきた。排水系統更新済み。旧バルブ閉鎖不要。そう書いてあった。わしは信じた。図面にそうあるなら、地下もそうなったんだと思った」
ガンテツは、保守帳の古いページを開いた。
「雨の日だった。閉めるべき古いバルブを、閉めなかった。閉めなくていいと書いてあったからだ。結果、逆流した。保守員が二人、逃げ遅れた。うち一人は、わしの親方だった」
ガンテツは、そこで一度、言葉を切った。
「親方は、逃げ遅れたんじゃない。逃げなかった。古いバルブの位置を、あの人しか知らんかった。だから最後まで残って、水を止めようとした。……知っとる者から、奥に残る。地下では、それがいちばん危ない。いちばん詳しい者が、いちばん奥で死ぬんだ」
事務所が静かになった。
「それから書き始めた。図面に書いてないことを。紙なら、停電しても読める。濡れれば滲むが、全部は消えん」
「それを、AIが古いと判断した」
「そうだ」
ガンテツの声には、怒りだけではないものがあった。
「わしが古いなら、構わん。実際、古い。だが、この帳面に書いてあるのは、わしだけじゃない。死んだ親方の手順だ。辞めた若いのの失敗だ。腰をやった仲間の癖だ。水に流された連中が、流される前に残したものだ」
サエが、少しだけ目を伏せた。
「弟子はいないんですか」
俺が訊くと、ガンテツの指が、保守帳の上で一度だけ止まった。
「三ツ目というのが、一人いる」
名前を口にするとき、この男はわずかに詰まった。誇りと、言いにくさが、同じ喉のところで一度、ぶつかったような詰まり方だった。
「今朝、そいつが資格を止められた。地下で、じいさんを一人助けたせいでな」
ガンテツは、端末をこちらに向けた。
業務停止予定通知。AI保守網移行。旧式手動設備群の整理。管理外経路の閉鎖。未承認保守資格の失効。
末尾には、あの白い札。
地下系整理/IX-UG。
また、あの白い札だ。今度は、地下か。
俺は口の中の灰桜を噛んだ。青い光が、机の端で小さく揺れた。
「今夜零時に、AI保守網が切り替わる」
ガンテツは言った。
「切り替わったら、何が起きる」
「地下の古い口が、全部閉じる」




