7-1
水が下から昇ってくる夜は、街が、下から片づけられていく夜だ。
水は低い方へ流れる。少なくとも、都市の図面にはそう書いてある。
だがその朝、東京湾岸区の古い地下歩廊では、錆びた排水溝から水が噴き上がり、天井近くの非常灯を、下から濡らしていた。
最初に異常に気づいたのは、榎戸という老人だった。
老人は毎朝、その地下歩廊を通る。地上を歩けないわけではない。足は悪いが、歩ける。義体の膝は、冬になると軋むし、雨の日には接続部が鈍く痛む。それでも、杖をつけばまだ歩ける。
だが、地上の顔認証ゲートは、もう彼を通さない。八年前の工場事故で顔の左半分を義体に替えてから、榎戸の顔は、都市行政網の記録と少しずつ合わなくなった。再登録には金がいる。医師の証明もいる。企業病院の認証もいる。どれも、退職した老人には重かった。
だから彼は、毎朝地下を歩く。地上より遠回りだ。空気は湿り、壁には配管の汗が滲み、天井からは時々、錆色の雫が落ちる。広告もない。コンビニもない。それでも、ここには顔認証がない。足があれば通れる。それだけで、榎戸には十分だった。
その朝、彼は古い布包みを胸に抱えていた。中には、薬と、小さな乾燥剤の袋と、紙の写真が一枚入っている。薬は鳥居診療所へ届けるものだった。紙の写真は、ずいぶん前に死んだ妻と、まだ子どもだった娘が写ったものだ。
端末の写真は、何度か消えた。紙だけが残った。
だから彼は、水が上がってきたとき、まず足元ではなく、布包みを持ち上げた。
非常灯が白く瞬いた。
『排水異常を検出。安全確保のため、経路を閉鎖します』
壁のスピーカーが、明るい声でそう告げた。安全確保。その言葉が終わるより早く、地下歩廊の両端で防火扉が降り始めた。
榎戸は走れない。義体の膝が言うことを聞かない。水位は上がる。防火扉は下がる。安全確保という言葉が、何も知らない顔で、彼の逃げ道を塞いでいく。
「止めろ!」
地下の奥から、若い声が響いた。
小柄な人影が、水を蹴って走ってくる。ドワーフだった。まだ髭も薄い若い技師で、ヘルメットの保安灯が黄色く濁っていた。背は低い。だが腕は太く、腰には工具と端末がいくつも吊られている。
彼は防火扉へ向かわなかった。壁へ向かった。錆びた配管の下、剥がれかけた保守番号の裏に、丸い手動バルブが隠れていた。図面には載っていない。地上の管理画面にも出ていない。だが、そこには確かにバルブがあった。
若い技師は、腰から古いバルブキーを抜き、泥水の中に膝をついて差し込んだ。
『警告。未承認の手動介入を検出』
「黙れ」
『安全基準外操作です。作業を停止してください』
「安全なら、人を閉じ込める前に言え」
彼は両手でバルブキーを回した。重い金属音が地下に響く。水の流れが変わり、噴き上がっていた水が、足元の溝へ引き戻されていく。閉まりかけた防火扉が、膝の高さで止まった。
「じいさん、包みを先に」
榎戸は布包みを扉の向こうへ押し出した。技師がそれを受け取り、続けて老人の腕を掴む。榎戸は、水に足を取られながら、扉の下を這うように抜けた。
膝が痛んだ。だが、写真は濡れなかった。
技師は、老人を扉の内側へ引き込んでから、もう一度だけ、閉じかけた扉の隙間を振り返った。水は、まだ噴いている。誰か、他に取り残された者はいないか。その目は、明らかに、そう探していた。誰も、いなかった。今夜は、まだ。
技師は、濡れた布包みを胸元に押しつけ、息を吐いた。額の汗と地下水が混じり、頬を伝う。
その端末に、通知が届いた。
保守資格一時停止。未承認手動介入。AI保守網移行妨害。該当地下区画、整理対象。
通知の末尾に、白い札が貼られていた。
地下系整理/IX-UG。
水はまだ、下から上へ流れていた。




