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あとは、早かった。
当局の監査窓口に、室井の裏帳簿が届いた朝、〈環状ロジ〉本社は真っ青になった。下請けが、預かった荷を何年も抜いていた。事故として処理された荷の行き先が、一件残らず、几帳面に記録されていた。泥棒の几帳面さが、そのまま、泥棒の首を絞めた。
室井は、その日のうちに、下請け契約を切られた。横領で、当局に引かれた。彼が屋根の道に置いた封鎖ドローンは、撤去された。猫又の運び屋一家への、未登録運送の通報は――突き出した本人が、もっと大きな罪で引かれたので――うやむやのうちに、取り下げられた。
屋根の道が、戻った。
そして、その日の夜。
ナズナが旧市街の外れ、水路沿いの古いアパートへ、走った。今度は、誰にも追われずに。背中の箱には、心臓の薬。届け先は、登録を切られた、一人の婆さん。
手持ちはあと一日ぶんだった、と、あとで聞いた。
間に合った。
婆さんは、ナズナに、礼も言わなかったそうだ。ただ、薬を受け取って、皺だらけの手で、その箱をしばらく撫でていたという。届く、ということが当たり前でなくなった者にとって、荷が届くというのは、それだけで、大きなことだった。
*
その夜、運び屋の一家のねぐらは、宴だった。
沸いていないはずの古い銭湯に、どこからか湯が張られ、猫又たちが、そこに尾を浸して、酒を飲んでいた。若い走り手たちが、昨夜のリレーの手柄を、口々に自慢し合っている。誰の跳躍がいちばん際どかったか。誰がドローンを何機、引きつけたか。話は、夜ごとに少しずつ大きくなっていくのだろう。十年もすれば、昨夜のリレーは、伝説になっているかもしれない。運び屋の手柄話は、たいてい、そうやって盛られていく。だが、盛られた話の芯には、本当に運ばれた荷が一つ、必ずある。
銀次は、板の間の真ん中で、二本の尾を悠々と揺らして、猪口を舐めていた。
サエは、めずらしく、その輪の隅に座っていた。猫又の若いのが、彼女に酒を勧め、彼女がそれを、素っ気なく断り、それでも追い出しはしない。作り変えられた側の女と、表を通れない者たち。はぐれ者同士、妙に、馬が合うらしかった。
ナズナがその隅へ、おずおずと近づいてきた。手の甲の粘着弾の跡は、もう薄くなっている。
「あの……サエさん」
「なに」
「あたし、二十メートル、跳べなかった。落ちて、泳いだ。……あれ、かっこ悪かった?」
サエは少し考えた。
「跳べないなら、落ちればいい。落ちて、渡ればいい。……荷が届いたなら、それでいい」
ナズナの顔が、ぱっと明るくなった。この街でいちばん速い、と自分で思っている若い猫又はサエに認められたのが、よほど嬉しかったらしい。
「あの子大したもんだよ」
銀次が、俺の隣に来て言った。視線の先でナズナが若い連中に囲まれて、照れくさそうにしている。
「二十メートルの谷間を、荷を濡らさずに越えた。あたしの若い頃にゃ、できなかったね」
「あんたの若い頃は、尾が一本だったろう」
「口の減らねえ帳外屋だ」
銀次は、笑った。それから猪口を俺のほうへ少し傾けた。
「あんたに、頼んでよかった。……あんた、中身は訊かなかったな。薬だって言うまで」
「運び屋の、真似をしただけだ」
「なら、覚えとくよ。運び屋の流儀だ。……中身は訊かねえ。だが、あんたが届けたって顔は、忘れねえ」
俺はその言葉を、少しのあいだ噛んでいた。
この街は、人を数える。番号で、記録で、帳簿で。数えられない者は、いないことにされる。だが、この老いた運び屋は、逆のことをしていた。数えない。中身は訊かない。ただ、顔を覚える。誰が、何を、どこへ届けたか。その一つ一つを、忘れない。
企業が数えるのをやめた者たちを、銀次は覚えている。ちょうど、古いビルの座敷童が、住人の一人一人を覚えていたように。覚えている者がいるかぎり、その人は、いなかったことにはならない。
運び屋の稼業は、荷を運ぶことだ。だが本当に運んでいるのは、たぶん、それだけじゃなかった。
俺は、灰桜をくわえた。今夜は、火をつけてもいい気がした。青白い煙が、湯気に混じって、天井へ昇っていく。
久しぶりだった。
こんなふうに、はっきり勝ったのは。相手が、殴れる相手だったからだ。欲で動く男。弱みのある悪党。書式でも、制度でもない、一人の室井。だから、勝てた。
この街を締めている、もっと大きな手は、まだそこにある。室井が消えても、〈環状ロジ〉は、また別の下請けを立てるだろう。屋根の道は、また、いつか塞がれる。全部が、片づいたわけじゃない。
だが、今夜は、勝った。
薬は、間に合った。運び屋は、屋根に戻った。落とせなかった荷を、あの子は落とさずに運び切った。
それで、十分だった。
サエが、輪の隅から、こちらを見た。めずらしく、機嫌のいい顔だった。
「なに、しみじみしてんの」
「してない」
「勝った顔してる」
「たまには、いいだろう」
サエは、少し笑って、猫又の勧める酒を、今度は、受け取った。
窓の外で、東京湾岸区の屋根が、夜に沈んでいる。その上を地図にない道が細く、途切れがちに、走っている。表を通れない者たちの、荷を繋ぐ道。企業のどの地図にも載らない、けれど確かにそこにある、運び屋の道だ。
その道の上を、今夜も、誰かの薬が、誰かの荷が、落とされることなく、運ばれていく。
俺は、煙を吐いた。
明日になればまた別の下請けが、別の道を塞ぎに来るかもしれない。この街を締める大きな手は室井一人が消えたくらいでは、緩まない。全部が片づいたわけじゃない。
だが、今夜のことは、消えない。婆さんの手に、薬は渡った。屋根の道は、また灯っている。
それは、この街の帳簿のどこにも載らない。だが、確かに、あった。
たまには、こういう夜も、悪くなかった。




