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その荷が届かなかった、という話を持ってきたのは、銀次という老猫又だった。
俺の事務所にそいつは音もなく入ってきた。ドアが開いた気配も、床を踏む音もない。気づいたら応接椅子の背に、猫のように腰かけていた。
小柄な老人だった。着流しに、擦り切れた前掛け。白髪交じりの髪を後ろで結び、口の端に細い髭。尾が二本、着物の裾から覗いている。二尾の猫又だ。年季が入っている。そして、夜のせいか、両の目が琥珀色に灯っていた。
「帳外屋の、久我ミナトさんだね」
「そうです」
「運び屋の、銀次ってもんだ。表は通らねえ稼業でね」
ソファの端で、サエが薄目を開けた。灰色の目が老猫又の尾を、興味深そうに見る。
「二本ある」
「長く生きるとね増えるのさ。荷物と、恨みと、尻尾がね」
サエの口の端が、わずかに上がった。この老人の喋り方が、少し気に入ったらしい。
俺は、この老人が少し読めないな、と思った。悲壮でもなく、卑屈でもない。荷が止まり、通報され、追い詰められているはずなのに、どこか飄々としている。長く生きた者の、身のかわし方だった。逃げ足だけは達者な都市の隙間の住人。だが、その飄々の下に、若い運び屋を案じる確かな熱があった。
俺は灰桜を一本くわえた。火はつけない。
「荷が届かなかった、と」
「昨夜だ。うちの若いのが、一件、運んでた。旧市街の外れまで。……途中で、企業の封鎖ドローンに、やられた」
「その子は」
「無事だ。粘着弾を、荷ごと食らってね。屋根に貼りついて、動けなくなったところを、身一つで抜け出した。運び屋は、いざとなりゃ、荷を捨てて逃げる。……いや」
銀次は、そこで首を振った。
「捨てられなかった。あの子は、荷を抱えたまま、粘着弾に貼りつかれた。落とせなかったんだ。だから、逃げるのに、手間取った。……運び屋の悪い癖だよ。荷を、落とせねえ」
銀次は、猪口を舐めるような口ぶりで、そう言った。だが、その目は笑っていなかった。
「若えのはな、みんな、荷を落とせねえんだ。落としちゃいけねえって、教え込まれて育つからな。……本当は、いざとなりゃ捨てていい。命のほうが大事だ。頭じゃ、わかってる。だが、体が、落とせねえ。あの子は、特にそうだ。速えくせに、律儀でな」
俺は、その言い方に覚えがあった。教え込まれたものが体に染みついて離れない。頭より先に体が動く。それが時々その者を、危ない場所に立たせる。俺の手もそうだった。忘れたい過去ほど体の側に、律儀に居座る。
「荷は」
「企業に押さえられた。届かなかった」
「中身は」
銀次は、俺を見た。琥珀色の目が、少し細くなる。
「運び屋は、中身を訊かねえ。だが、今回は言う。……薬だ」
部屋の空気が、少し変わった。
「旧市街の外れに、婆さんが一人いる。登録を切られて、企業病院を追い出された。心臓の薬が要る。切らせば、命に関わる。その薬を、うちが月に一度、運んでた。表の薬局じゃ、登録のねえ婆さんには、売っちゃくれねえからな」
俺は、その話を、黙って聞いた。
この街には、表の物流に乗らない荷が、いくつもある。登録を切られた者への薬。企業病院に断られた者の、検査の結果。死んだことにされた者が、たった一つ残した写真。表の配送は、そういうものを運ばない。伝票に載らないからだ。載らない荷は、無いのと同じ。無いものは、運べない。
だが、この老人たちは、運ぶ。伝票のない荷を、地図のない道で。誰かが数えるのをやめた者たちのあいだを、細い糸で繋いでいる。それが、猫又の運び屋の稼業だった。
「その一件が、止まった」
「昨夜のが今月分だ。婆さんの手持ちはあと三日ぶん。三日のうちに、次を届けねえと」
「その婆さん、あんたらの身内かい」
サエがめずらしく訊いた。
「いんや。客だ。ただの客だよ」
銀次は、そう言って、少し笑った。
「だがな。二十年、月に一度、同じ薬を、同じ婆さんに運んでりゃ、身内みてえなもんさ。婆さんは俺たちの顔を覚えてる。俺たちも婆さんの顔を覚えてる。……表の薬局は婆さんの番号を照らすだけだ。顔なんざ、見やしねえ」
俺は灰桜のフィルターを、軽く噛んだ。
三日という刻限が、静かに机の上に置かれた。
「なぜ、届かない。ドローンにやられただけなら、また運べばいい」
「それが、そうもいかねえ」
銀次は、着物の袖から、皺だらけの紙を出した。当局からの、通行禁止の通達だった。猫又の運び屋一家に対する、未登録運送の疑い。屋根の道の、当面の使用禁止。
「うちが、当局に突き出された。未登録運送だ、ってな。誰が突き出したかは、わかってる。室井だ」
「室井」
俺が繰り返すと、銀次は苦い顔をした。
「大手配送の、下請けだ。〈環状ロジ〉の名前で、この辺りの荷を仕切ってる。……最近、うちの縄張りを、片っ端から潰しにかかってる。独立の運び屋を、未登録だ違法だと当局に突き出して、客ごと巻き上げる。屋根の道を、自分のドローンで塞いでな」
「あんたらを潰して、荷を独り占めする」
「そういうこった。表の荷はな。だが、うちが運んでるのは、表に出せねえ荷ばかりだ。登録のねえ婆さんの薬。消された奴の、たった一つの荷物。……室井は、そんなもんは運ばねえ。金にならねえからな。うちが消えりゃ、その荷は行き場を失う」
俺は灰桜を指で挟んだ。
これは、いつもの相手とは、少し違った。都市を締めていく、顔のない機械でもない。悪意なく人を削る、清潔な役人でもない。室井は、ただの、欲得で動く男だ。縄張りが欲しい。金が欲しい。だから、邪魔者を潰す。
久しぶりに、輪郭のはっきりした悪党だった。
「サエ」
「聞いてた」
サエは、ソファから足を下ろした。灰色の目に、めずらしく、退屈でない光がある。
「機械じゃなくて、人なんでしょ。その室井って」
「そうだ」
「なら、殴れる」
サエはそう言って、少しだけ笑った。
この女は、風で断ち切れない相手を嫌う。書式も、制度も、彼女の刃は通らない。だが、欲で動く人間には、弱みがある。弱みがあるやつは、殴れる。彼女がこんなに乗り気なのは、久しぶりだった。
「引き受ける。ただし、正面からドローンとやり合っても、勝てない。相手には金がある。金があるやつには、たいてい、後ろ暗いところがある。そこを突く」
俺は、狐に連絡を入れた。




