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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第六話 猫又は荷を落とさない

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6-2

 その荷が届かなかった、という話を持ってきたのは、銀次(ぎんじ)という老猫又(ねこまた)だった。


 俺の事務所にそいつは音もなく入ってきた。ドアが開いた気配も、床を踏む音もない。気づいたら応接椅子の背に、猫のように腰かけていた。


 小柄な老人だった。着流しに、擦り切れた前掛け。白髪交じりの髪を後ろで結び、口の端に細い髭。尾が二本、着物の裾から覗いている。二尾の猫又(ねこまた)だ。年季が入っている。そして、夜のせいか、両の目が琥珀色に灯っていた。


帳外屋(ちょうがいや)の、久我(くが)ミナトさんだね」


「そうです」


「運び屋の、銀次(ぎんじ)ってもんだ。表は通らねえ稼業でね」


 ソファの端で、サエが薄目を開けた。灰色の目が老猫又(ねこまた)の尾を、興味深そうに見る。


「二本ある」


「長く生きるとね増えるのさ。荷物と、恨みと、尻尾がね」


 サエの口の端が、わずかに上がった。この老人の喋り方が、少し気に入ったらしい。


 俺は、この老人が少し読めないな、と思った。悲壮でもなく、卑屈でもない。荷が止まり、通報され、追い詰められているはずなのに、どこか飄々としている。長く生きた者の、身のかわし方だった。逃げ足だけは達者な都市の隙間の住人。だが、その飄々の下に、若い運び屋を案じる確かな熱があった。


 俺は灰桜(はいざくら)を一本くわえた。火はつけない。


「荷が届かなかった、と」


「昨夜だ。うちの若いのが、一件、運んでた。旧市街の外れまで。……途中で、企業の封鎖ドローンに、やられた」


「その子は」


「無事だ。粘着弾を、荷ごと食らってね。屋根に貼りついて、動けなくなったところを、身一つで抜け出した。運び屋は、いざとなりゃ、荷を捨てて逃げる。……いや」


 銀次(ぎんじ)は、そこで首を振った。


「捨てられなかった。あの子は、荷を抱えたまま、粘着弾に貼りつかれた。落とせなかったんだ。だから、逃げるのに、手間取った。……運び屋の悪い癖だよ。荷を、落とせねえ」


 銀次(ぎんじ)は、猪口を舐めるような口ぶりで、そう言った。だが、その目は笑っていなかった。


「若えのはな、みんな、荷を落とせねえんだ。落としちゃいけねえって、教え込まれて育つからな。……本当は、いざとなりゃ捨てていい。命のほうが大事だ。頭じゃ、わかってる。だが、体が、落とせねえ。あの子は、特にそうだ。速えくせに、律儀でな」


 俺は、その言い方に覚えがあった。教え込まれたものが体に染みついて離れない。頭より先に体が動く。それが時々その者を、危ない場所に立たせる。俺の手もそうだった。忘れたい過去ほど体の側に、律儀に居座る。


「荷は」


「企業に押さえられた。届かなかった」


「中身は」


 銀次(ぎんじ)は、俺を見た。琥珀色の目が、少し細くなる。


「運び屋は、中身を訊かねえ。だが、今回は言う。……薬だ」


 部屋の空気が、少し変わった。


「旧市街の外れに、婆さんが一人いる。登録を切られて、企業病院を追い出された。心臓の薬が要る。切らせば、命に関わる。その薬を、うちが月に一度、運んでた。表の薬局じゃ、登録のねえ婆さんには、売っちゃくれねえからな」


 俺は、その話を、黙って聞いた。


 この街には、表の物流に乗らない荷が、いくつもある。登録を切られた者への薬。企業病院に断られた者の、検査の結果。死んだことにされた者が、たった一つ残した写真。表の配送は、そういうものを運ばない。伝票に載らないからだ。載らない荷は、無いのと同じ。無いものは、運べない。


 だが、この老人たちは、運ぶ。伝票のない荷を、地図のない道で。誰かが数えるのをやめた者たちのあいだを、細い糸で繋いでいる。それが、猫又(ねこまた)の運び屋の稼業だった。


「その一件が、止まった」


「昨夜のが今月分だ。婆さんの手持ちはあと三日ぶん。三日のうちに、次を届けねえと」


「その婆さん、あんたらの身内かい」


 サエがめずらしく訊いた。


「いんや。客だ。ただの客だよ」


 銀次(ぎんじ)は、そう言って、少し笑った。


「だがな。二十年、月に一度、同じ薬を、同じ婆さんに運んでりゃ、身内みてえなもんさ。婆さんは俺たちの顔を覚えてる。俺たちも婆さんの顔を覚えてる。……表の薬局は婆さんの番号を照らすだけだ。顔なんざ、見やしねえ」


 俺は灰桜(はいざくら)のフィルターを、軽く噛んだ。


 三日という刻限が、静かに机の上に置かれた。


「なぜ、届かない。ドローンにやられただけなら、また運べばいい」


「それが、そうもいかねえ」


 銀次(ぎんじ)は、着物の袖から、皺だらけの紙を出した。当局からの、通行禁止の通達だった。猫又(ねこまた)の運び屋一家に対する、未登録運送の疑い。屋根の道の、当面の使用禁止。


「うちが、当局に突き出された。未登録運送だ、ってな。誰が突き出したかは、わかってる。室井(むろい)だ」


室井(むろい)


 俺が繰り返すと、銀次(ぎんじ)は苦い顔をした。


「大手配送の、下請けだ。〈環状ロジ〉の名前で、この辺りの荷を仕切ってる。……最近、うちの縄張りを、片っ端から潰しにかかってる。独立の運び屋を、未登録だ違法だと当局に突き出して、客ごと巻き上げる。屋根の道を、自分のドローンで塞いでな」


「あんたらを潰して、荷を独り占めする」


「そういうこった。表の荷はな。だが、うちが運んでるのは、表に出せねえ荷ばかりだ。登録のねえ婆さんの薬。消された奴の、たった一つの荷物。……室井(むろい)は、そんなもんは運ばねえ。金にならねえからな。うちが消えりゃ、その荷は行き場を失う」


 俺は灰桜(はいざくら)を指で挟んだ。


 これは、いつもの相手とは、少し違った。都市を締めていく、顔のない機械でもない。悪意なく人を削る、清潔な役人でもない。室井(むろい)は、ただの、欲得で動く男だ。縄張りが欲しい。金が欲しい。だから、邪魔者を潰す。


 久しぶりに、輪郭のはっきりした悪党だった。


「サエ」


「聞いてた」


 サエは、ソファから足を下ろした。灰色の目に、めずらしく、退屈でない光がある。


「機械じゃなくて、人なんでしょ。その室井(むろい)って」


「そうだ」


「なら、殴れる」


 サエはそう言って、少しだけ笑った。


 この女は、風で断ち切れない相手を嫌う。書式も、制度も、彼女の刃は通らない。だが、欲で動く人間には、弱みがある。弱みがあるやつは、殴れる。彼女がこんなに乗り気なのは、久しぶりだった。


「引き受ける。ただし、正面からドローンとやり合っても、勝てない。相手には金がある。金があるやつには、たいてい、後ろ暗いところがある。そこを突く」


 俺は、狐に連絡を入れた。

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