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救出は不完全だった。この街の救いは、いつもそうだ。
街じゅうの"ルカ"は、止まらなかった。その夜企業は宣言どおり、"ルカ"の人格モデルを、完成させた。もう生身の彼女は、要らない。これからは、AIだけで、街じゅうのルカが、笑い続ける。もっと綺麗に。もっと完璧に。眠りもせず。
俺が彼女から奪い返せたのは、彼女の生身の身体、ただ一つだった。
施設を出るとき、通用口のゲートで、彼女は弾かれた。認証灯が赤く光る。登録重複。本人確認不能。──ゲートのすぐ上の広告でも、"早霧ルカ"が、笑っている。それなのに、そのゲートは、生身の彼女を、通さなかった。登録されたアバターのほうが、"本物"だと、機械は判じていた。俺が古い手順で、ゲートを黙らせた。彼女は俯いたまま、そこを通った。
以前記録の上で死んだことにされた河童の技師がいた。彼も記録上は生き返ったが、完全には戻らなかった。都市の中で、少しだけ薄くなった。この女も同じだった。街じゅうに顔を持ちながら、裏口からこっそり通り抜けるしかない。薄いまま生きていくしかない。全部は救えない。
街の壁であの完璧な笑顔が、今も笑っている。彼女を消すために、ばらまかれた顔だ。だがその一枚ずつが、今夜から彼女にとって、意味の違うものに、なった。敵の顔ではなく、いつか取り返す自分の顔に。
だが一つだけ彼女は手に入れた。
「自分の偽物を」
女は街の広告を、見上げて言った。そこで"早霧ルカ"が、笑っている。
「逆に使えるんですね」
今夜は一枚だけだった。だが街には何万枚もある。その一枚ずつに、彼女の種を、忍ばせられるなら。企業が彼女を消すためにばらまいた、何万枚の偽物は、そっくりそのまま、彼女の声を、街じゅうに届ける器に、変わる。企業が作った檻が、彼女の翼に、なる。
まだ遠い話だった。今夜俺たちが奪い返せたのは、一枚の広告の、数秒と一人の女の、生身の身体だけだ。街じゅうのアバターは、止められなかった。企業は痛くも痒くもない。──だがこの街の勝利は、いつもそういう形をしている。全部は救えない。ひとつの顔、ひとつの声、ひとりの名前を、今夜だけ帳の外へ逃がす。それだけだ。それだけの仕事だった。
だが一枚を戻せたということは、道があるということだった。
サエが屋上から降りてきた。袖口の赤い線が、消えていく。
彼女はルカの隣に、腰を下ろした。めずらしく、少し疲れた顔で。
「作り変えられた側は」
サエが低く言った。
「自分が壊れてることに、なかなか気づけない。毎日少しずつ剥がされるから。……あんたは気づいた。逃げた。呼び戻された。それでもまた逃げようとした。──剥がされても、逃げようとするうちは、まだあんただ」
ルカはサエを見た。
「あなたも逃げたんですか」
「記録を切った。名前も捨てた。……呼ばれると、身体が勝手に言うことをきくから」
「わたしと逆ですね。わたしは呼ばれすぎて、消えた」
「どっちも」
サエは平坦に言った。
「名前で殺される」
この二人は、たぶん初めて会った。だが言葉は要らないようだった。作り変えられた側だけが知っている言葉で、二人は短く通じ合っていた。俺の入れない部屋が、そこにも一つあった。
「……こわくないんですか」
ルカが訊いた。
「作り変えられた自分に、街じゅうで、笑いかけられて」
サエは少し黙った。
「慣れる、とは言わない」
「じゃあ」
「見ないようにする。あんたも、街の顔は、見なくていい。……あれは、あんたじゃない」
やがてサエは女を見て短く言った。
「名前」
「え」
「あんたの名前。呼びにくい」
女は口を開きかけて、また止まった。本名は出てこない。頭のリグに上書きされた自己参照が、まだ彼女の舌を、縛っている。
「……"ルカ"しか出てこないんです」
「ならそれでいい」
サエはあっさりと言った。
「私も昔の名前は、捨てた。今の名前は、自分で選んだ。──"ルカ"が、あんたの選んだ名前なら、それはもう企業のじゃない。あんたのだ」
女が俺を見た。俺は頷いた。
「ルカです」
彼女は初めて自分でその名を名乗った。掠れた生身の声で。もう作り物の声色は、混じっていなかった。
街じゅうで、"早霧ルカ"が、笑っている。同じ名前が、この疲れた女の口からも、出た。だが二つはもう別のものだった。ひとつは企業が貼りつけた札。もうひとつは、本人が拾い直した名前だ。同じ音でも、持ち主が違えば、それは違う名前になる。
*
事務所に戻る頃には、空が白み始めていた。
サエはめずらしく、すぐには帰らなかった。ソファに浅く座り、灰色の目を、半分閉じている。作り変えられた側の話を、今夜はいつもより、たくさん見た。そういう夜のあとの彼女は、少しだけ静かになる。
「あの子大丈夫かな」
サエがぽつりと言った。彼女が他人の心配を口にするのは、珍しかった。
「わからない。薄いまま生きるしかない」
「私と似てる」
サエは目を閉じたまま言った。
「記録の隅っこで生きる。いつ消されても、おかしくない。……でも消されるまでは、生きてる」
「本当の名前は、戻らなかったな」
「戻ってない。あれは、企業が持ってったまま」
サエは、そこで少し黙った。
「でも、あの子は、名乗る側に戻った。名前をつけられる側から、自分で選ぶ側に。──取り戻したのは、名前じゃない。それでも、大きいのよ」
サエはそれ以上は、言わなかった。名前を自分で選ぶということが、この女にとって、どれだけ大きいことか。俺はそれを訊かないでおいた。訊けば自分のことも、訊かれる。
俺は灰桜をくわえた。火をつける前に、端末が震えた。
差出人不明。件名なし。本文は一行だった。
――片づけたのは、あなたの半分です。残りをいつ取りに伺いましょうか。
俺はしばらく画面を見ていた。
脅しでも予告でもなかった。ただ事実を置いていくような一行だった。いつだったか、自分の名前で、行政網に照会をかけたことがあった。何もおかしくなかった。おかしくないほど、きれいに整えられていた。誰かが俺の記録だけを、都合よく整えている。──その"誰か"が、俺の半分を、もう片づけた、と言う。残りを取りに来る、と。
指がまた細かく震えた。俺は灰桜のケースの角を、指で確かめた。
ルカはいちばん美しい部分だけを保存され、残りを捨てられかけた。俺は逆だ。都合のいい部分だけを、きれいに整えられて、残りがまだ宙に浮いている。だがやっていることは、同じだ。人を使える部分と、使えない部分に、分ける。使える部分だけを、帳簿に残す。──ルカに起きたことは、いつか俺にも起きる。たぶんそう遠くない、いつか。
「なに」
サエが片目を開けて、訊いた。
「次の仕事の、勧誘だ」
「報酬は」
「俺の半分らしい」
「最悪」
「知ってる」
俺は灰桜に火をつけた。青白い煙が、朝になりかけた事務所の天井へ、昇っていく。
窓の外では、朝一番の街が、目を覚まし始めていた。ビルの壁で、無人タクシーの天井で、歩道の柱で、"早霧ルカ"が、今日も笑っている。眠らないエルフ。多様性採用の、成功例。エルフなど、どこにもいないのに。
その何万枚もの笑顔の、どこか一枚の、いちばん深いところに、今も本物の女の、素の声が種のように、眠っている。いつか芽を出す種が。
俺は煙を吐いた。
ルカはいい話だと思って、あの椅子に座った。登録も住まいも居場所ももらえるはずだった。もらえたのは、街じゅうに貼られた、自分の偽物と、眠れない夜と、呼べなくなった、自分の名前だけだった。
この街の広告は、誰かの顔で、埋まっている。だが顔を貸した本人が、どこにいるのかを、誰も気にしない。眠れない街は、眠らない誰かに、支えられている。そのことを、この街はたぶんこれからも、知らないままだ。
少なくとも、今夜は。




