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俺たちは封鎖の隙間を、こじ開けて、施設を抜けた。
閉じかけた扉を、サエの風が、押し戻す。追ってきた警備の足を、また風が薙ぐ。俺はふらつく女を抱えて、白い廊下を、走った。認証端末が、赤く点滅し、俺たちの背後で、何枚もの防壁が、順番に降りてくる。あと一枚遅ければ閉じ込められていた。
外へ出ると、夜の空気が、顔に当たった。消毒液の匂いが、少しずつ薄れていく。女は久しぶりの外の空気を、大きく吸い込んだ。それから俺の腕の中で、震える指で、行き先の番地を、告げた。旧市街の外れ。最後に一枚届けたい場所。
俺たちは警備の追撃を振り切り、夜の街をそこへ向かって、走った。
街じゅうの広告を、乗っ取ることは、できなかった。
止めることも、できなかった。何万枚もの"ルカ"を、この女はもう取り戻せない。だが彼女は逃げる前に、一つだけ仕込んでいた。自分の広告人格の、いちばん深いところに。企業の学習が、どうしても消しきれなかった、本音の切れ端を。種を一つ。
その種はたった一枚の広告になら、繋げられた。
「一枚でいいんです」
女は言った。
「あの人に届けばいい」
旧市街の外れに、古い集合住宅があった。まともな登録を持たない者が、身を寄せるように住んでいる、安いアパートだ。その一室に、眠れない老人が、住んでいた。元は港湾で四十年働き、身体を壊し、制度が変わって、登録からこぼれ落ちた男だという。妻は先に逝った。子はいない。
その男は毎晩窓の外の街頭ビジョンの、"ルカ"を、見ていた。
狐にその老人のことを、少しだけ調べてもらっていた。等価交換の、前借りだ。眠れない夜を、彼はその一枚の広告と、二人きりで、越えていた。返事のない相手にでも、そこに"いる"と思えるだけで、夜は越えられる。──あの女の一言が、本物だったなら。あの人は四十年働いて捨てられた夜を、その一言だけで、越えてきたことになる。
「あの人家族がいないんです」
女が俺の端末越しに、その部屋の映像を、見ていた。
「夜話し相手が、いない。……"わたし"が、深夜の枠で、"眠れない夜も、あなたは一人じゃありません"って、言うんです。企業に書かされた台詞です。でも一度だけ収録の最後に、疲れて台本にないことを、零したことがあって。"わたしも、眠れないんです"って。──それが、あの人のいちばん好きな一言に、なってて。企業がそれを深夜枠に使い回してる。わたしの本音を」
彼女の声が、掠れた。
「本音を商品にされるのは、いいんです。慣れました。でもあの人にわたしの顔で、嘘を言い続けるのだけは。それがいちばん嫌だった」
サエが屋上へ上がった。
街頭ビジョンの画は、二つの経路で、書き換えられる。屋上の中継盤から、瞬きひとつで画を差し戻す物理リセットと、遠隔からじわじわ塗り替える上書き。企業がこの一枚の異常に気づけば、まず速いほうを使う。中継盤を叩いて、一拍のうちに、完璧なルカへ、戻す。
「中継盤切った」
通信越しに、サエの声。屋上で赤い駆動線が灯り、風が太い中継ケーブルを、根元から断つ音がした。火花が夜に散る。これで企業に残るのは、遅いほうの上書きだけだ。彼女が稼いだのは、その数秒だった。
「一発でやって」
サエの息は、上がっていた。連続で風を使えば、彼女の身体も、削れる。
「二回は保たない」
「一回でいい」
俺は女に訊いた。
「何を言う」
女は少しだけ笑った。
「もう決めてます。ずっと言いたかったことを」
俺は彼女の種を、あの一枚の街頭ビジョンへ、繋いだ。回路の最後の一点まで。
*
街頭ビジョンの、完璧なエルフの顔に、亀裂が走った。
ガラスが割れるように、ではない。仮面が剥がれるように、だった。頬の完璧な曲線の下から、別の輪郭が、押し上げてくる。企業の毒々しい多色が――青と桃と緑が――画面の四隅から、慌てて流れ込んで、その顔をまた綺麗に、塗り直そうとする。だが間に合わない。仮面の割れ目から、灰色の地味な光が、根のように、広がっていく。抑え込まれていた、本物の信号。彼女が失踪の前に、埋めておいた種が、芽を出していた。
数秒だけその一枚に、二つの顔が、重なった。
滑り落ちていく、完璧なエルフの微笑み。その下から、押し出されてくる、疲れ果てた、平凡なヒューマンの女の顔。目の下に濃い隈。艶のない黒髪。街じゅうを埋める美貌の、その"中身"が、今初めて剥き出しになった。誰も見たことのない顔が、まっすぐ窓の向こうの、老人を見ていた。
『眠れない夜に、あなたに嘘ばかり聞かせてごめんなさい』
掠れた声だった。企業が磨いた、あの完璧な声では、なかった。ひび割れた、生身の女の声だった。
『でもあの一言だけは、本当でした。わたしも眠れないんです。ずっと。……だからあれを聞いてくれて、ありがとう』
そこで、多色が勢いを増した。四隅から流れ込む青と桃と緑が、灰色の根を、端から塗り潰しにかかる。仮面がまた組み上がろうとする。女の顔が半分、飲み込まれた。
「まだ、言い残してる」
屋上でサエが低く言った。息が限界に近い。赤い駆動線が、不安定に明滅する。彼女があと一拍、上書きの手を風で払う。俺があと一拍、回路を押さえる。
塗り潰されていく顔の、最後の隙間から、女はそれを――いちばん言いたかった一言を――言い切った。
『本物の、わたしの声で、言いたかった』
窓辺の老人が、椅子から立ち上がった。四十年鉄を運んだ背中が、伸びる。彼は窓に近づいた。街頭ビジョンの中の、疲れた女の顔を、食い入るように、見ていた。その背中が、小さく震えていた。
彼はたぶんずっとうすうす気づいていた。あの完璧な笑顔が、作り物だということに。それでも縋っていた。他に夜を越える術が、なかったから。その彼に今初めて"本物"が、応えた。
作り物ではない、疲れた、掠れた声で。わたしも眠れないんです、と。ありがとう、と。あなたに聞いてほしかった、と。企業が何度も使い回した、その一言。だがそれを初めて本人の声で、本人の顔で、その人にまっすぐ返した。
数秒だった。
街頭ビジョンの中の顔が、また青と桃と緑に滲んで、完璧なエルフの微笑みに、戻った。眠らない街の相棒が、また優しく語りかけ始める。
だが老人はまだ窓に手をついたまま、立っていた。やがて彼は片手を上げた。完璧な笑顔にではない。その奥に一瞬だけ見えた、疲れた女の顔が、まだそこにいるかのように。小さく手を振った。
その老人は、返事をしなかった。声も届かなかっただろう。届いたのは、ただ一方通行の、数秒だけだ。だが四十年働いて捨てられ、誰にも呼ばれなくなった男に、今夜たしかに一人が名前も知らないまま、まっすぐ話しかけた。嘘ではない声で。
彼が見たものは、もう消えない。企業はそれを消せない。一枚の広告の、数秒。それだけが、この夜帳の外へ逃げた。




