5-7
サエは施設の外で、待っていた。
中には入りたがらなかった。清潔で無機質で静かな場所を、彼女は嫌う。実験区画に、似ているからだ。それを俺は知っていた。だから呼ぶのを最後までためらった。
だが彼女は来た。
白い廊下を、赤い非常灯の下を、黒いコートの影が、走ってくる。警備の男たちが、前を塞ぐ。その一人の腕が、宙で断ち切られたように、跳ね上がった。武器ではない。風だ。サエの袖の下で、赤い駆動線が、灯っている。彼女がいちばん嫌う、企業に刻まれた戦闘用の赤が、風を呼ぶときだけ、目を覚ます。
狭い廊下は、鎌鼬には都合がいい。逃げ場のない空気が、そのまま刃になる。
サエは警備を風で薙ぎ払いながら、部屋に飛び込んできた。
そして接続椅子の女を見た瞬間、足が止まった。
サエはこの部屋を、俺以上に読める。後頭部のケーブル。腕を固定する拘束帯。薬を打つための施術台。それが何をするための部屋なのかを、彼女の身体は、言葉より先に、知っている。一瞬彼女の足が、後ろへ引いた。逃げたいと身体が言っている。
だが彼女は引かなかった。
後頭部から伸びる、何本ものケーブル。腕と胸を固定する、拘束帯。薬を打つための、細い施術台。──サエがいちばん、身の竦むものが、この部屋には、揃っていた。彼女の左手が、無意識に右の手首を、押さえた。今は何もない手首を、昔そこに何かが嵌まっていた人間の、癖で。
彼女はそれでも目を逸らさなかった。
「その拘束帯」
サエが低く言った。
「私が切る。あんたは下がってて」
サエの指が、軽く振られた。刃物は見えない。ただ空気だけが、薄く震えて、拘束帯の金具が、真っ二つに、落ちた。丁寧な切り方だった。女の肌には、髪一本触れていない。
俺は女を椅子から抱え起こした。後頭部のケーブルが、抜ける。抜けた端子から、細い光が消えていく。彼女が街じゅうのアバターに、送り続けていた、生きた温度の、最後の一滴だった。
その光が消えても、街のルカは、瞬き一つ乱さなかった。もうこの女を必要としていない。学習は終わっていた。生きた温度は、たっぷり吸い上げられたあとだった。
『最終処理進行率三十四パーセント。……被験体の物理的接続を、喪失。処理を遠隔モードへ、移行』
部屋の扉が、重い音を立てて、閉じ始めた。封鎖だ。侵入者を中に閉じ込める気だ。
サエが扉へ向かって、腕を振った。風が閉じかけた隙間に、突っ込む。金属が軋み扉が途中で止まった。だが彼女の息は、さっきより、荒い。連続で風を呼ぶたびに、袖口の赤い線が、不安定に明滅する。無限に切れるわけではない。鎌鼬の刃にも、在庫がある。
「早く」
サエが扉を押さえながら、言った。
「私が保つのはそう長くない」
「切り離しても、止まらないの」
サエが警備の残りを風で押さえながら、訊いた。
「止まらない。もう"ルカ"は、あらかた学習し終えてる。この女がいなくても、動く」
俺は腕の中の女を見た。二十年ぶりに立ち上がる人のように、彼女はふらついていた。
助けられなかった、と思った。街じゅうのアバターは、止まらない。企業は今夜"ルカ"を、完成させる。この女はもう要らないものとして、この施設から、こぼれ落ちるだけだ。生身のまま、どこにも映れないまま。
「一つだけ」
女が俺の腕の中で、言った。掠れた声だった。だが今度は、途中で途切れなかった。
「一つだけお願いがあるって言いました。……最後に一枚だけ。届けたい場所が、あるんです」




