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そのとき部屋の赤い非常灯が、一段明るくなった。
天井のスピーカーから、事務的な合成音声が、流れ始めた。
『保守区画に、記録外のアクセスを検出。──該当被験体の、最終処理を、前倒しで実行します』
女の顔から、血の気が引いた。
「最終処理」
俺が訊くと、彼女は震える声で、言った。
「わたしを切り離して、"ルカ"を、AIだけで、動かせるようにする処理です。……そうなったら、生身のわたしは、もう要らない。廃棄です。近いうちに、やるって聞いてました。でもまだ先だと」
「あんたが逃げたぶん、と俺が入ったぶんで、前倒しになった」
俺は天井の接続装置を、見上げた。ケーブルの根元で、細い光がこれまでと逆向きに、流れ始めていた。吸い上げるのではなく、切り離すための、光だ。
時間がなかった。
俺は端末を接続装置に、繋いだ。だが処理は止まらなかった。俺の古い権限では、この最新の処理系を、押さえきれない。止めようとするそばから、システムが、上書きしてくる。
『最終処理進行率十二パーセント』
部屋の壁の、モニターが、点いた。
映ったのは、若い男だった。皺ひとつないスーツ。整えた髪。爪は磨かれ、指先だけが、作り物のように光っている。襟元の企業の社章が、わずかに身じろぎするたび、青から桃桃から緑へと、安っぽく色を変えた。広告ホログラムと同じ、見る角度で表情を変える光だ。
俺はその種類の顔を、知っていた。以前港湾の清潔すぎる管理棟で見た。損失は数えられても、人の生き死には数えたことがない、あの顔だ。
『困りましたね』
男は怒鳴らなかった。おだやかに、微笑んだ。
『そこは被験区画です。今大切な処理の、最中でして。お引き取りを』
「本人が嫌がってる」
『本人というのは、どちらのことでしょう』
男は少しだけ困った顔をした。本当に困っているようだった。
『街の皆さんが愛しているのは、"早霧ルカ"です。あの微笑み。あの声。……それはその椅子の方の、いちばん良い部分を、丁寧に抽出したものです。疲れも不眠も荒れた指先も、無い。純度百パーセントの、"早霧ルカ"。私たちはあの方を保護しているんです』
「保護」
『ええ。いちばん美しい部分を、永遠に保存してさしあげる。老いも病も届かないところへ。生身はいずれ壊れます。眠らなければ、なおさら早く。ですが人格モデルは、壊れない。それのどこがいけないんでしょう』
男の目に悪意はなかった。それがいちばん厄介だった。この男は本気でそう信じていた。ルカの微笑みを永遠にすることが、ルカへのいちばんの優しさだと。
モニターの隅に、承認欄が開いていた。その端に白い札があった。ロゴでもない。役所の印でもない。妙に余白の多い、白い管理印。
人格系整理/IX-AV。
喉の奥が嫌な鳴り方をした。以前にも見た。座敷童を消そうとした廃棄申請書。河童技師を死人にした抹消処理。地図から消された地下搬送路。港湾の事故ログ。住居。記録。道路。労働。片づける対象が違うだけで、白さはいつも同じだった。そして今度は、人格だった。
「その札は誰が作った」
『さあ。私が作ったものでは、ありません。上から配られてくる書式です。……綺麗な書式なので、みな安心して使っています』
綺麗な書式。良かれと思っている奴が作る、いちばん始末に負えないやつ。狐の言葉が、俺の頭の中で、鳴った。
この男と話していても、時間が削られるだけだった。話が通じないから、怖い。俺はモニターに背を向けた。
説得しても、この処理は、止まらない。止められないなら、間に合わせるしかない。彼女の身体を、この椅子から、外してこの施設から、連れ出す。それだけが、"廃棄"を、防ぐ唯一の道だった。
「帳外屋さん」
女が俺の腕を掴んだ。細い指だった。爪の際が荒れて、震えている。俺と同じ震え方だった。
「わたしはいいんです。もう疲れました。……でも一つだけ。お願いが」
「言うのはあとだ」
俺は端末を諦めた。処理は止められない。なら止めるのではなく、間に合わせるしかない。ケーブルを、力ずくで抜く。彼女の身体さえ、この椅子から、外してしまえば、少なくとも、"廃棄"は、できなくなる。
だが拘束帯が彼女の腕と胸を、椅子に固定していた。薬を打つときに、暴れないための、拘束だ。金具は俺の古いキーでは、開かなかった。
廊下の奥から、複数の足音が、近づいてきた。警備だ。
俺は拘束帯の金具を、灰桜の火で炙ろうとして、やめた。間に合わない。俺一人では、間に合わない。
俺は端末を握った。ためらった。だがためらっている時間の分だけ、この女が削られていく。
俺はサエを呼んだ。




