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いちばん奥の部屋は、暗かった。
広告に映る、あの均一な光は、ここには届いていなかった。非常灯だけが、赤く低く点っている。部屋の中央に、古い調整椅子があった。そこに一人座っていた。
俺は近づいて足を止めた。
人違いかと思った。
俺が探していたのは、エルフだ。街じゅうで笑っている、長い睫毛の、透けるような肌の、光のエルフ。だが椅子に繋がれていたのは、そのどれでも、なかった。丸い耳。平凡な輪郭。安い作業着。艶のないただの黒髪。目の下に濃い隈。どこにでもいる、ヒューマンの女だった。改札でコンビニで、すれ違っても、誰も振り返らない。そういう顔だ。
俺は部屋を見回した。他に誰もいない。奥にも扉はない。ここが投与記録の、指す先でいちばん奥だった。
エルフはいなかった。
後頭部から、細いケーブルが何本も、天井の接続装置へ、吸い込まれている。女が動くたび、それが微かに引かれた。──街じゅうの、あの完璧なエルフを、動かしていたのは、この女だった。疲れた表情の、いちばんいいコマだけを抜き出して、あの笑顔に。掠れた声の、いちばん澄んだ一瞬だけを削り出して、あの優しい声に。
エルフは最初から存在しなかった。
"多様性採用の成功例"の、美しいエルフなど、どこにもいない。街じゅうの何万枚もの笑顔は、この暗い部屋に繋がれた、ごく普通の女から、搾り取られたものだった。生身が疲れるほど、抜き取れる「いい部分」は増える。だから眠らせない。──剥ぎ取られた本人が、自分の剥ぎ取られたもので出来た誰かに、街じゅうで、笑いかけられている。俺はしばらく言葉が出なかった。
「あなたが」
女が俺を見た。声が掠れていた。
「帳外屋さん」
その一音の奥に、街じゅうで聞いた、あの完璧なルカの声色が、薄く混じっていた。素の声と作り物の声が、同じ喉から、二重写しに、出てくる。
「早霧ルカだな」
「……その名前は」
女は口を開きかけて、止まった。
「その名前は、わたしのじゃないんです。商品の名前です」
「じゃああんたの名前は」
女は答えようとした。唇が動いた。だがそこから出てきたのは、掠れた自分の声ではなく、あの完璧な、広告のルカの声だった。
『わたしは早霧ルカです』
女の顔が歪んだ。自分の口から出た、自分でない声に、怯えるように。彼女は両手で自分の口を、押さえた。しばらくそうしていた。それからゆっくりと、手を下ろした。
彼女の中には、二人いた。生身の疲れた女と、企業が磨いた、完璧なルカ。同じ喉を二人で奪い合っている。名前を言おうとすれば、完璧なほうが、出てくる。本音を言おうとすれば、生身のほうが、掠れて途切れる。長く繋がれているうちに、どちらが本物か、彼女自身にも、わからなくなりかけていた。
「……ごめんなさい。もううまく言えないんです。長く"ルカ"としか、呼ばれなくて。頭のこれが」
彼女は後頭部のケーブルに、指で触れた。
「わたしが"わたし"を思い出そうとするたびに、"ルカ"を、上から貼ってくる」
名前まで食われていた。
俺はコマリのことを、思い出した。あの人工の座敷童には、登録名がなかった。名前を持てなかった子。──この女は、逆だった。名前を持ちすぎた。街じゅうに、何万枚も貼られた名前に、本物の名前が、押し潰されていた。持てなくても、持ちすぎても、行き着く先は、同じだった。自分の名を、自分で呼べなくなる。
「逃げたのか。ここから」
「一度だけ。……すぐ連れ戻されました。逃げてもこの顔じゃ、どこのゲートも、通れないんです。街じゅうに、"ルカ"の顔があるのに。生身のわたしが、認証に立つと、"重複"って、弾かれる。登録されてるのは、あっちのほうだから」
彼女は力なく笑った。作り物ではない、疲れた本物の笑い方だった。
「わたしはもうこの街には、いないことに、なってるんです。顔だけ残して」
彼女は自分の腕を、そっと抱いた。作業着の袖の下に、注射の痕が、いくつも重なっている。この腕から、あの完璧な微笑みが、搾り取られていた。
「最初はいい話だったんです。登録も住むところも、保険も全部会社が用意してくれるって。この街でそれがどれだけありがたいか」
わかる。この街では、登録の切れた人間から、順に薄くなっていく。ちゃんとした登録は、命綱だ。それを差し出されて、断れる人間は、そういない。
「気づいたら、辞められなく、なってました。辞めたら登録が消える。消えたらわたしはこの街から、いなくなる。……だから続けるしかなかった。街じゅうで、わたしが笑い続けるために。わたしが眠らないために」
罠は優しい顔で、始まる。命綱の形をして。気づいたときには、その命綱が、首に巻きついている。
「眠りたいって言ったことも、あるんです」
彼女は掠れた声で、続けた。
「そしたら"早霧ルカは、眠らない設定なので"って。……設定。わたしの睡眠が、設定なんです。エルフは眠らず働ける、っていうあの売り文句。あれを本当らしく見せるために、わたしが眠っちゃいけない。エルフでもないわたしが、眠らないエルフを、演じるために」
俺は街じゅうの広告を、思い返した。眠らない街の相棒。眠らず働ける、優秀な人材。あの言葉の一つ一つが、この女から、眠りを奪っていた。売り文句が、そのまま拷問の手順書だった。
「あんたをここから出す」
俺は言った。慰めは言わなかった。大丈夫だとも、悪いのは企業だとも、言わなかった。言えばこの女はそれが本気かどうかを、疲れた目で、見抜く。だからできることだけを、口にした。
「全部は取り返せない。街のあんたは、止められない。……だが生身のあんただけは、連れて出る。それくらいしか、できないが」
女はしばらく俺を見ていた。それから掠れた声で、言った。
「……それだけで、いいんです。もうずっと"生身のわたし"を、要ると言った人が、いなかったから」




