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御堂からの返事は、電話越しに、短かった。
道路屋のエルフは、あいかわらず、必要な言葉しか使わない。背後でドローンの充電音らしい低い唸りがしている。
「早霧ルカか」
「知ってるんですね」
「顔だけな。会ったことはない」
俺は少し間を置いた。
「同じエルフとして、会ったことも、ないんですか。同じ会社に、いたのに」
『ない』
電話の向こうで、御堂は短く息を吐いた。
「不思議に思ったことは、ある。同じ長命種で、同じ会社で、あれだけ有名なのに、社内の集まりにも、一度も顔を出さない。……エルフってのは、狭い。誰かが必ずどこかで会ってる。だがあいつに会ったエルフを、俺は聞いたことがない」
俺はその言葉を、飲み込んだ。同じ種族の狭い世界でさえ、誰も彼女に会っていない。
「あんたなんで俺にあの子のことを」
「噂を流しただけだ。飾られる側が、逃げ道を探してる、と聞いた。一度、消えかけて、すぐ連れ戻された、とな。だから裏通りに、そういうものを拾う男がいる、と」
御堂はそこで少し黙った。
「光の当たりすぎる場所ってのは、たいていいちばん影が濃い。……あいつの顔を見るたびに、俺はその影のほうが、気になった。それだけだ」
それだけ言って、御堂は電話を切った。道路以外のことは、専門外なのだろう。だが専門外のことを、わざわざ一度だけ、口にしてくれる男だった。
*
広告制作施設は、表からは入れなかった。
正面には企業の警備がいる。俺のような人間が正面から訪ねれば、名前を照会されて、それで終わりだ。俺の名前を、企業のシステムが、どう扱うかは、わからない。以前自分の名を照会したとき、記録は不自然なほど、きれいに整えられていた。誰かが俺の記録を、都合よく管理している。その"誰か"の目の前に、自分から名乗り出るのは、避けたかった。
残る手は一つ。企業怪異対策部門にいた頃の、古い手順だ。
こういう施設には、必ず図面に載らない保守口がある。緊急時に制圧班が押し入るための、裏口。俺は施設の裏手に回り、植え込みの奥の、壁の低い位置を、探った。あった。目立たない保守端子。外装パネルの、決まった三箇所を、指で押す。順番も力の入れ方も、頭より先に、手が知っていた。カバーがかちりと外れる。
嫌になる。頭で思い出すより先に、指が動く。忘れたい過去ほど、体の側に律儀に居座る。
差し込む手が、少しだけ震えていた。この裏口を、俺は企業の犬だった頃、怪異を追い詰めるために、何度も使った。追い詰められる側に回った今、同じ手順で、同じ扉を開けている。手だけがどっち側にいるかを、覚えていない。
旧式のアクセスキーを、差した。一秒二秒。
認証。だが画面の隅に、見慣れない表示が、一瞬点いた。
――保守アクセス、記録。
俺は舌打ちした。以前ならこういう裏口は、記録すら残らなかった。だがシステムは、少しずつ穴を塞いでいる。今の侵入は、どこかに痕を残した。長くはいられない。
自動扉が音もなく開いた。
中に入った瞬間、俺は足を止めた。
白い廊下だった。均一な影のない光。物のない壁。消毒された、無機質な空気。青と桃と緑が、認証端末の上で、順番に切り替わっている。
鼻の奥に覚えのある匂いが立ち上がった。ありもしない匂いだ。ここは広告制作施設で、あの部屋じゃない。それでも鼻がそれを嗅いだ。消毒液。乾かない何か。白い報告書。
待機室だ。
企業にいた頃、現場帰りに何度も通された、あの清潔な小部屋。そこで俺は報告書を書き、次の"回収対象"を受け取った。壁はこんなふうに白かった。空気はこんなふうに、感情を消していた。天井から感情を消した声が、次の指示を、読み上げる。回収対象何番。停止許可発令済み。──あの部屋を出るとき、俺はいつも、自分が少しずつ削られている気がした。今思えば削られていたのだ。あの部屋で。眠れない女が、この施設で、削られているのと、同じように。
指が震えた。
俺は反射的に灰桜をくわえた。火はつけない。ここで青い霧を吐けば、警報が鳴るかもしれない。ただくわえてフィルターを噛む。青い認証光を、指先で確かめる。今はここだ。広告制作施設。あの待機室じゃない。俺はもうあそこにはいない。
震えが少しだけ引いた。
俺は白い廊下を、奥へ進んだ。
廊下の奥に、制作区画があった。
ガラスの向こうに、ずらりと並んだ作業台。そこで技師たちが、早霧ルカを、組み立てていた。
一人が笑顔の角度を調整していた。もう一人が、声の抑揚を、波形で削っていた。別の一人が、瞳の潤みの量を、数値で入力していた。彼女の微笑みが、無数の部品に分解されて、モニターの上に並んでいる。頬の上がり方。睫毛の伏せ方。「ありがとう」と言うときの、息の混ぜ方。
俺は一つのモニターの前で、足を止めた。そこにはルカが「ありがとう」と言うその一瞬が、コマ送りで、無数に並んでいた。頬が上がる。目が細くなる。息がわずかに漏れる。そのどれもに、番号が振られ、良し悪しが、点数で付けられている。点の高いものだけが、残される。低いものは、消される。
人の「ありがとう」をこんなふうに、分解できるのか、と思った。
別の台では、彼女の声が、波形になって、削られていた。掠れが取り除かれる。ためらいが、均される。疲れの滲んだ低さが、聞き心地のいい高さへ、持ち上げられる。残ったのは、どこまでも澄んだ、優しい声だった。生身の誰も、あんな声では、喋らない。人の声から、人の疲れを抜くと、こんなに綺麗になる。綺麗になった声は、もう人の声では、なかった。
技師たちは、悪人には見えなかった。ただ丁寧だった。丁寧に一人の人間を、部品にしていた。誰も手を汚していない。誰も痛みを感じていない。ただ点数の低い「ありがとう」が静かに消されていくだけだった。手を汚さない残酷さなら、待機室で見飽きるほど、見た。ここはそのいちばん綺麗な現場だった。
壁の一角に、管理画面があった。俺はそれを指で拡大した。投与記録だった。
睡眠抑制薬。神経調整薬。投与間隔六時間ごと。備考欄に事務的な一文。
――被験体の覚醒維持により、収録可能時間を最大化。
被験体。ルカのことを、そう呼んでいた。眠らせない。眠らせないほど、たくさん収録できる。俺はその一文を、待機室で見た記録の続きのように、感じた。俺の名前の隣にも、昔こういう事務的な文が、並んでいた。何を打たれたのかを、当時の俺は、深く考えなかった。考えないほうが、続けられた。
俺は早霧ルカを、探しに来た。眠らされ薬を打たれ、素材にされている、若いエルフを。だから制作区画のさらに奥、投与の記録が指す先へ、進んだ。そこに彼女がいるはずだった。あの完璧な光のエルフが。




