5-3
サエはソファに座って、窓の外の広告を、見ていた。そこでも早霧ルカが、笑っている。
「あれ嫌い」
サエが言った。
「どこが」
「笑いすぎ。あんなに笑う人間、いない」
「その人間が、見つからない」
俺が言うと、サエはこちらを見た。灰色の目が、半分眠そうに、けれど俺の顔のいつもと違うところを、確かめている。
「どういうこと」
「顔は街じゅうにある。だが本人に会った奴が、一人もいない。住所は空っぽのオフィス。撮影も本人抜きで、データだけ。……まるで最初から人間なんて、いなかったみたいだ」
サエはしばらく黙っていた。それから窓の外の巨大な笑顔を、もう一度見上げた。
「いないんじゃなくて」
彼女は低く言った。
「見せてもらえないんでしょ。作り変えられた側は、たいてい表に出してもらえない。……いちばん都合のいい部分だけ、切り取られて、飾られる。残りはどこか暗いところに、しまわれてる」
サエはそういうことを、身体で知っている女だった。実験体だった頃の話を、彼女はめったにしない。だが時々こういうところで、滲む。
「あんたあの顔なんでそんなに嫌いなんだ」
俺が訊くと、サエは少し黙った。
「笑ってるのに、疲れてないから。……作られた側は、疲れてる。疲れてないのは、作り物だけ。あんなに笑って、疲れてないなら、あれは誰かの疲れを、全部どこかに押しつけてるってこと」
彼女の勘は、たいてい当たる。今回も当たっていた。
「暗いところ、か」
俺は呟いた。
顔をこれだけ完璧に作り込む技術がある。その技術は、どこかにある。制作の現場だ。表情を組み上げ、声を削り笑顔を量産している場所。──もし生身の本人が、どこかに"しまわれている"なら。それはたぶんその現場の、いちばん奥だ。
*
その現場の名前を、俺は狐に訊いた。
旧市街の地下喫茶《尻尾》は、昼でも夜のようだった。地下へ降りるほど匂いの層が増える。焦げた豆こぼれた酒、湿ったコンクリート、そして誰かの吸う霊煙の甘さ。表通りの監視カメラは、この階段の下までは届かない。だから届かないでいたい連中が、匂いの底に沈むように集まる。
狐は頼んでもいない濃い茶を、俺の前に置いた。金の指輪が、ポットを傾けるたび、ちゃらりと鳴る。男とも女ともつかない顔に、金色の縦に細い瞳。
「早霧ルカね」
狐は俺のメモを、覗き込んだ。
「面白い名前を、持ってきたね。──街じゅうに顔があるのに、本人がいない。気づいたか」
「気づいた。だから来た」
「本人を見た奴が、一人もいない。僕も探したことがある。仕事でね。……見つからなかった。あんな有名人が、だ。普通あり得ない」
狐は自分の分の茶も、啜った。核心に触れると、この男は一瞬手が止まる。今止まった。
「僕の勘だと」
狐は金色の縦瞳を、細くした。
「あの"ルカ"は、たぶん一人の人間じゃない。顔と声と表情。ばらばらの素材を、繋いで一人に見せてる。……でその素材を、供給してる"本物"が、どこかにいる。生きた温度を、絞り取られながら」
「その本物は」
「知らない。だが一つ言える」
狐は金の指を一本立てた。
「素材の供給元は、たいていいちばん丁寧に隠される。顔は街じゅうにばらまくくせに、"本物"だけは、絶対に表に出さない。──なぜだと思う」
「見せられない顔だから、か」
「そういうことだ」
狐は笑った。笑っているときほど、信用してはいけない目だった。
「情報料は」
俺が訊くと、狐は金の指輪を鳴らした。
「今日はいらない。そのかわり、いつかあんたが見たものを、全部話してくれ。──広告の裏ってのは、僕みたいな商売にも、いつか関わってくる。先物買いだよ」
中身の見えない借用書に、また一枚判を押した。狐は早霧ルカの人格モデルが作られている施設の名を、紙の切れ端に書いて、寄越した。湾岸の広告制作施設。表からは入れない場所だった。




