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まず簡単だと思った。
これだけ有名な広告塔だ。所属も事務所も公表されている。本人に辿り着くのは、造作もない。俺はそう考えて、半日で間違いに気づいた。
登録上の住所は、あった。だが行ってみると、企業の広報用オフィスだった。受付の無人端末が、笑顔で「ご用件を」と訊いてくる。早霧ルカの居室はどこか、と打ち込むと、"該当なし"。ここに住んでいる人間は、一人もいなかった。ただ住所として、登録されているだけだ。
事務所の担当者にも、繋いでみた。丁寧な男が、丁寧に応対した。早霧の現在の所在は、と訊くと「スケジュールは、こちらで管理しております」と返ってくる。所在ではなく、スケジュール。俺が知りたいのは、人がどこにいるかで、予定がどう埋まっているかではない。だが何度訊いても、返ってくるのは、予定だった。
撮影スタッフに、当たってみた。何人かルカと"仕事をした"という人間はいた。だが話を聞くと、妙だった。
「収録ですか。ええご一緒しました」
あるカメラマンは、そう言った。
「といっても、ご本人が現場にいらっしゃるわけじゃなくて。データでいただくんです。表情の素材を。それをこちらで組み上げる。……直接お会いしたことは、ないですね。そういえば」
別のスタイリストも、同じことを言った。衣装は合わせる。だが着るのはモデルではなく、データだ。メイク担当は、ルカの肌を、一度も触ったことがなかった。
逆に彼女を"よく知っている"人間なら、いくらでもいた。
あるファンの集まりを、覗いてみた。若い連中から、年寄りまで、種族もばらばらだ。彼らは早霧ルカの、口癖を諳んじ、好きな飲み物を言い合い、去年の誕生日に彼女が言った言葉を、まるで自分に向けられたことのように、大事に抱えていた。深夜眠れない夜に、彼女の声だけが、味方だった、と言う者もいた。
だがその誰も生身の彼女に、会ったことは、なかった。握手もサインもない。声をじかに聞いたこともない。彼らが愛していたのは、画面の中の、光だった。それでも彼らにとって、彼女は本物だった。──本物より、本物だった。
その夜俺は事務所の暗がりで、深夜の配信を、一つ見てみた。画面の中で早霧ルカが、いつもの優しすぎる声で、語りかけてくる。
『眠れない夜も、あなたは一人じゃありません』
完璧な声だった。優しすぎる声だった。台本の匂いがした。だがその台詞のあいだに、ほんの一瞬、抑揚が崩れる箇所があった。企業の磨きが、そこだけ届いていない。まるで台本の下から、別の誰かの、疲れた本音が、滲み出てくるように。
俺はその一瞬に、なぜか目を離せなかった。街じゅうの誰かが、この一瞬に、慰められているのだ、とわかった。そしてその一瞬だけが、たぶんこの広告の中で、唯一本物だった。
その配信を、同じ時刻に、同じ一枚だけ見続けている端末が、いくつもあった。俺はその一つを、なんとなく辿った。旧市街の外れの、古い集合住宅の一室。港湾で四十年働き、身体を壊し、制度が変わって帳簿の隅へ追いやられた老人の部屋だった。妻は先に逝き、子はいない。毎晩その老人は、窓の外の街頭ビジョンの"ルカ"を、一人で見ていた。
返事のない相手でも、そこに"いる"と思えるだけで、夜は越えられる。俺は、その一室の灯りを、端末の地図の上で、しばらく見ていた。
顔だけがある。本人がいない。
俺は事務所の窓辺で、灰桜をくわえた。火はつけない。指先が少し震えていた。
こういう感じを、俺は知っていた。企業が誰かを"消す"とき、いつもこうなる。記録は残る。名前も残る。だが本人だけが、するりと抜け落ちている。生きているのか、死んでいるのかも、わからないまま、記録だけが、笑い続ける。
だが早霧ルカは、ただ消された人間とは、少し違った。消された人間は、街からいなくなる。この女は逆だった。いなくなったのに、街じゅうに、増えていく。会った者はいないのに、誰もが知っている。存在しないのに、実在の誰より、有名だ。──俺はまだその意味を、掴みきれていなかった。ただ掴んだとき、ろくなことにならない、という予感だけが、あった。




