5-1
彼女の顔は、街じゅうにあった。ただし本人はどこにもいなかった。
東京湾岸区の夜は、広告のせいで昼より明るい。高架をくぐるたび、ビルの側面が、無人タクシーの天井が、歩道の柱が、同じ顔で埋まっている。若いエルフの女だ。長い睫毛、透けるような白い肌、尖った耳の先まで完璧に整った輪郭。そして疲れというものを一度も知らないような微笑み。
早霧ルカ。
どの広告でも、彼女は笑っていた。新しい福利厚生制度を宣伝し、企業の理念を語り、深夜の通販枠では、眠らない街の相棒として、優しく語りかけてくる。長命種の知性。洗練された企業人。眠らずに働ける、優秀な人材。多様性採用の、成功例。
その笑顔は、二十四時間、途切れなかった。
この街では、広告はただの背景ではない。歩道の案内も、非常口の表示も、天気予報も、みな広告の枠を間借りして流れている。広告が消えれば、街の半分は、道順すらわからなくなる。企業はそれをよく知っていて、だからいちばん人の目に触れる場所に、いちばん見せたい顔を、置く。今その場所を占めているのが、早霧ルカだった。
俺は封鎖された歩道橋の上から、いちばん大きな一枚を見上げていた。港湾に面した、五十階分はあるビルの壁面。そこで早霧ルカが、ビルまるごとの大きさで微笑んでいる。
俺は灰桜を一本くわえた。フィルターを噛むと、先端の認証チップが青く点く。肺には入れず、口の中に霧を溜めて、ゆっくり吐いた。怪異現場用の霊素安定剤は、場の歪みに、ほんのわずかに反応する。
吐いた青白い霧が、風もないのに、広告のほうへ細く流れた。
巨大なルカの、頬のあたり。その一点で、光がわずかに乱れた。完璧な白い肌の下から、青と桃と緑が、順番にほんの一瞬だけ滲む。安っぽい認証光のような多色。すぐにまた完璧な肌に戻る。
覚えのある乱れ方だった。以前企業が作った座敷童の少女も、ホログラムが揺れる瞬間、着物の緋色が青や緑にちらついた。下地の描画コードが漏れる。作り物の証だ。
この笑顔の下に、何かが走っている。
そのとき俺の端末が、震えた。
配信の隙間に紛れ込むような、細い通知。差出人の欄には、あの広告アカウントの名前があった。早霧ルカ・公式。
本文は一行だった。
――わたしを探さないでください。
俺が眉をひそめた次の瞬間、同じアカウントから、もう一行が届いた。今度は書き方が違った。丸い隙のない企業の広報らしい文体。
――ご相談は広報部までお願いいたします。
同じ口が二人分の言葉を喋っていた。
助けを求める声と、その声を消しに来る声が、同じ喉から出ている。俺はその二行を、しばらく見ていた。探さないでくれ、とわざわざ言うのは、探してほしい人間の言うことだ。本当に見つかりたくない人間は、黙って消える。声を上げた時点で、この女は半分助けを求めていた。もう半分は、そんな自分を、止めようとしている。帳外屋に来る依頼は、たいていこういう矛盾を、抱えている。
俺は早霧ルカを、探すことにした。




