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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第四話 オークは夜勤を降りない

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4-7

 こうして、証拠は公になった。


 完全な勝利ではなかった。この街の勝利は、いつもそうだ。


 物流会社は、事故を「AIの調整パラメータの誤設定」として処理した。担当AIは再調整され、危険作業の割り当ては是正された。会社はトウゴの労災認定を、"不注意"から"システム起因"へ書き換えた。ガントが求めていた、トウゴの名前の隣の一文字は、消えた。バルガの記録も、同じように書き換えられた。三ヶ月遅れの訂正だったが、それでも、彼の腕は"本人の認識不足"ではなくなった。


 だが耐久種族補正たいきゅうしゅぞくほせいそのものは、残った。差別ではなく、公平な設計。合理的な最適化。その思想は、パラメータを直された程度では、消えない。次の港で、次の現場で、また誰かが"頑丈な列"に並ばされる。


 そしてトウゴの手は、戻らなかった。


 承認欄(しょうにんらん)の白い札――IX-LB――が誰のものなのかも、分からないままだった。間宮(まみや)は知らない。会社もたぶん本当には知らない。ただ"整理上の標準手順"として、それはそこにあった。


 俺はそのことを、頭の隅に置いた。住居、記録、道路、労働。四枚目の白い札。まだ絵の全体は見えない。だが同じ手が、都市のあちこちで、白い札を貼って回っている。


     *


港の朝は、遅い。


 高い防音壁と倉庫の影で、日が差すのは、ほかの街より一時間は遅れる。夜勤明けのオークたちが、白い光の消えた埠頭(ふとう)を、ゆっくりと歩いて帰っていく。ドゥガがいた。マルもいた。事故のあと、少しだけ、声が大きくなったマルが。


 俺はガントと並んで、そのうしろ姿を見ていた。


「これであんたは夜勤を降りられる」


 俺が言うと、ガントは短く笑った。笑い方が、少しだけ、痛そうだった。


「降りねえよ」


「班長を続けるんですか。こんな目に遭って」


「俺が降りたら、どうなると思う」


 ガントは、遠くの埠頭(ふとう)を見たまま言った。


「トウゴは、"やっぱりオークは危ない"の一件で終わる。班長が辞めるほどの、不注意なオークがいた。そういう話に、また書き換えられる」


 彼の傷だらけの太い手が、作業着の(すそ)を握った。


「それだけは、させねえ」


 俺は何も言わなかった。


「勝ってねえよ、これは」


 ガントは、静かに言った。


「あいつの手は、戻らねえんだから」


 朝の光が、ようやく防音壁の上に届いた。歩いていくオークたちの背中を、遅い日差しが、薄く照らす。


「ただ」


 ガントは、続けた。


「次のトウゴが減るなら、それでいい」


 彼は俺のほうを向いた。欠けた(きば)を見せて、不器用に笑った。


「あんたに、頼んでよかった。金の仕事じゃねえって言った意味、わかったろ」


「わかりました」


「トウゴには、また会いに行ってやってくれ。あいつあんたのこと、気に入ってた。目でそう言ってた」


 俺は頷いた。約束はめったにしない。だがこれはしてもいい約束だと思った。


 ガントが、夜勤明けの班のほうへ、歩いていく。ドゥガが、彼に何か言った。マルが笑った。家族のような、あの班のほうへ。班長はこれからも、あの列に立ち続ける。次の若いのに、指差呼称(しさこしょう)を復唱させながら。


 声に出せ。指で差せ。


 それはこの街で、いちばん手間のかかる、いちばん人間らしい記録の残し方だった。機械はそれをしない。機械は顔を見ない。欄を見る。だから人間が声に出す。お前はここにいる。俺は見ている。そう確かめ合うために。


 俺は灰桜(はいざくら)を一本取り出した。火をつけ、青白い煙を、遅い朝の空へ吐いた。手は震えていなかった。


 サエが少し離れた場所で、壁にもたれて待っていた。病院にも、この現場の白い光にも、彼女は入ってこない。だがいつもそばにいる。入れない部屋の、すぐ外で。


「終わった?」


「終わった」


「勝った?」


 俺は少し考えた。


「負けはしなかった」


「それ勝ってないやつが言うセリフ」


「知ってる」


 この街では、頑丈な者が、頑丈だという理由で、先に行かされる。誰も命令せず、誰も謝らない。ただ数字が静かに順番を決めている。


 俺たちは、その数字を、少しだけ書き換えた。トウゴの名前の隣の、たった一文字を。バルガの記録の、たった一行を。


 それだけだ。それだけの仕事だった。


 だがその一文字のために、腕をなくした男が、少しだけ救われた。動かない手のトウゴが、涙を流した。それだけの仕事に、意味がなかったとは、俺には思えなかった。


     *


数日後俺は約束どおり、トウゴの見舞いに行った。一人で。


 トウゴは、少しだけ、口が動くようになっていた。まだ言葉にはならない。だが俺が名前の隣の一文字が消えたことを伝えると、その目が、笑った。ガントに似た、不器用な笑い方だった。


 帰り際病室の窓から、港が見えた。遠くで無人クレーンが、いつものように、鉄を吊り上げている。トウゴは、その光景を、じっと見ていた。あそこに、戻りたいのだ、とわかった。もう戻れないのに。


 俺は何も言わなかった。ただ次に来るときは、灰桜(はいざくら)ではなく、あいつの好きなものを、何か持ってこようと思った。それくらいしか、できることがなかった。


 港は今日も回っている。頑丈な者を、頑丈だという理由で、先に行かせながら。だがその列には、まだガントが立っている。声に出せ、指で差せ、と繰り返しながら。


 俺たちがやったのは、一台のAIを、一度止めただけだ。パラメータを直されても、耐久種族補正たいきゅうしゅぞくほせいという思想が消えたわけじゃない。トウゴの名前の隣の、一文字を消しただけ。それは川の流れを、指一本で、ほんの一瞬、せき止めるようなものだった。


 だがそのせき止めた一瞬に、バルガの記録が直り、トウゴが涙を流し、マルがまた声を出せるようになった。ほんの一瞬でも、流れは確かにそこで止まった。誰かが指を突っ込んだからだ。


 それがこの街での、俺の勝ち方だった。川は止められない。ただ指を突っ込んだ一瞬だけ、誰かが息をつける。俺にできるのは、それを続けることだけだった。


     *


数日後の見舞いから戻ると、端末に差出人不明のメッセージが一通、届いていた。


 本文は一行だけだった。


 ――頑丈なものから、先に片づく。


 俺はしばらく画面を見ていた。それから、灰桜(はいざくら)を消した。


 頑丈なものから、先に片づく。脅しでも、予告でもない。ただこの街の理屈を、事実として述べていた。誰かがそれを心底正しいと信じている。悪意もなく、迷いもなく。


 その手は、たぶん俺がまだ会っていない、どこか静かな部屋にいる。


 俺は窓の外の、遅い朝を見た。港のほうから、無人トラックの列が、今日も荷を運んで出ていく。誰も乗っていない車が、決められた道を、正確に走っていく。


 その正確さが、少しだけ、恐ろしかった。

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