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こうして、証拠は公になった。
完全な勝利ではなかった。この街の勝利は、いつもそうだ。
物流会社は、事故を「AIの調整パラメータの誤設定」として処理した。担当AIは再調整され、危険作業の割り当ては是正された。会社はトウゴの労災認定を、"不注意"から"システム起因"へ書き換えた。ガントが求めていた、トウゴの名前の隣の一文字は、消えた。バルガの記録も、同じように書き換えられた。三ヶ月遅れの訂正だったが、それでも、彼の腕は"本人の認識不足"ではなくなった。
だが耐久種族補正そのものは、残った。差別ではなく、公平な設計。合理的な最適化。その思想は、パラメータを直された程度では、消えない。次の港で、次の現場で、また誰かが"頑丈な列"に並ばされる。
そしてトウゴの手は、戻らなかった。
承認欄の白い札――IX-LB――が誰のものなのかも、分からないままだった。間宮は知らない。会社もたぶん本当には知らない。ただ"整理上の標準手順"として、それはそこにあった。
俺はそのことを、頭の隅に置いた。住居、記録、道路、労働。四枚目の白い札。まだ絵の全体は見えない。だが同じ手が、都市のあちこちで、白い札を貼って回っている。
*
港の朝は、遅い。
高い防音壁と倉庫の影で、日が差すのは、ほかの街より一時間は遅れる。夜勤明けのオークたちが、白い光の消えた埠頭を、ゆっくりと歩いて帰っていく。ドゥガがいた。マルもいた。事故のあと、少しだけ、声が大きくなったマルが。
俺はガントと並んで、そのうしろ姿を見ていた。
「これであんたは夜勤を降りられる」
俺が言うと、ガントは短く笑った。笑い方が、少しだけ、痛そうだった。
「降りねえよ」
「班長を続けるんですか。こんな目に遭って」
「俺が降りたら、どうなると思う」
ガントは、遠くの埠頭を見たまま言った。
「トウゴは、"やっぱりオークは危ない"の一件で終わる。班長が辞めるほどの、不注意なオークがいた。そういう話に、また書き換えられる」
彼の傷だらけの太い手が、作業着の裾を握った。
「それだけは、させねえ」
俺は何も言わなかった。
「勝ってねえよ、これは」
ガントは、静かに言った。
「あいつの手は、戻らねえんだから」
朝の光が、ようやく防音壁の上に届いた。歩いていくオークたちの背中を、遅い日差しが、薄く照らす。
「ただ」
ガントは、続けた。
「次のトウゴが減るなら、それでいい」
彼は俺のほうを向いた。欠けた牙を見せて、不器用に笑った。
「あんたに、頼んでよかった。金の仕事じゃねえって言った意味、わかったろ」
「わかりました」
「トウゴには、また会いに行ってやってくれ。あいつあんたのこと、気に入ってた。目でそう言ってた」
俺は頷いた。約束はめったにしない。だがこれはしてもいい約束だと思った。
ガントが、夜勤明けの班のほうへ、歩いていく。ドゥガが、彼に何か言った。マルが笑った。家族のような、あの班のほうへ。班長はこれからも、あの列に立ち続ける。次の若いのに、指差呼称を復唱させながら。
声に出せ。指で差せ。
それはこの街で、いちばん手間のかかる、いちばん人間らしい記録の残し方だった。機械はそれをしない。機械は顔を見ない。欄を見る。だから人間が声に出す。お前はここにいる。俺は見ている。そう確かめ合うために。
俺は灰桜を一本取り出した。火をつけ、青白い煙を、遅い朝の空へ吐いた。手は震えていなかった。
サエが少し離れた場所で、壁にもたれて待っていた。病院にも、この現場の白い光にも、彼女は入ってこない。だがいつもそばにいる。入れない部屋の、すぐ外で。
「終わった?」
「終わった」
「勝った?」
俺は少し考えた。
「負けはしなかった」
「それ勝ってないやつが言うセリフ」
「知ってる」
この街では、頑丈な者が、頑丈だという理由で、先に行かされる。誰も命令せず、誰も謝らない。ただ数字が静かに順番を決めている。
俺たちは、その数字を、少しだけ書き換えた。トウゴの名前の隣の、たった一文字を。バルガの記録の、たった一行を。
それだけだ。それだけの仕事だった。
だがその一文字のために、腕をなくした男が、少しだけ救われた。動かない手のトウゴが、涙を流した。それだけの仕事に、意味がなかったとは、俺には思えなかった。
*
数日後俺は約束どおり、トウゴの見舞いに行った。一人で。
トウゴは、少しだけ、口が動くようになっていた。まだ言葉にはならない。だが俺が名前の隣の一文字が消えたことを伝えると、その目が、笑った。ガントに似た、不器用な笑い方だった。
帰り際病室の窓から、港が見えた。遠くで無人クレーンが、いつものように、鉄を吊り上げている。トウゴは、その光景を、じっと見ていた。あそこに、戻りたいのだ、とわかった。もう戻れないのに。
俺は何も言わなかった。ただ次に来るときは、灰桜ではなく、あいつの好きなものを、何か持ってこようと思った。それくらいしか、できることがなかった。
港は今日も回っている。頑丈な者を、頑丈だという理由で、先に行かせながら。だがその列には、まだガントが立っている。声に出せ、指で差せ、と繰り返しながら。
俺たちがやったのは、一台のAIを、一度止めただけだ。パラメータを直されても、耐久種族補正という思想が消えたわけじゃない。トウゴの名前の隣の、一文字を消しただけ。それは川の流れを、指一本で、ほんの一瞬、せき止めるようなものだった。
だがそのせき止めた一瞬に、バルガの記録が直り、トウゴが涙を流し、マルがまた声を出せるようになった。ほんの一瞬でも、流れは確かにそこで止まった。誰かが指を突っ込んだからだ。
それがこの街での、俺の勝ち方だった。川は止められない。ただ指を突っ込んだ一瞬だけ、誰かが息をつける。俺にできるのは、それを続けることだけだった。
*
数日後の見舞いから戻ると、端末に差出人不明のメッセージが一通、届いていた。
本文は一行だけだった。
――頑丈なものから、先に片づく。
俺はしばらく画面を見ていた。それから、灰桜を消した。
頑丈なものから、先に片づく。脅しでも、予告でもない。ただこの街の理屈を、事実として述べていた。誰かがそれを心底正しいと信じている。悪意もなく、迷いもなく。
その手は、たぶん俺がまだ会っていない、どこか静かな部屋にいる。
俺は窓の外の、遅い朝を見た。港のほうから、無人トラックの列が、今日も荷を運んで出ていく。誰も乗っていない車が、決められた道を、正確に走っていく。
その正確さが、少しだけ、恐ろしかった。




