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証拠が揃うと、相手も動いた。
いや相手という言い方は、正しくないのかもしれない。動いたのは、人ではなかった。
俺とガントが、証拠のコピーを持って管理棟を出ようとした、その時だ。港湾の無人クレーンが、一斉に起動した。
深夜の割り当ては、とっくに終わっている。動く理由のない時間だった。
だが物流AIにとっては、理由があった。後で分かったことだが、それはこう判断していた。当該区画で、事故率予測に不確定要素が増大。要素を除去すれば、予測精度が安定する。
つまり俺たちだ。調べ続ける人間が、AIにとっては、事故率という数字を乱す"ノイズ"だった。除去すれば、数字が綺麗になる。それは殺意ではなかった。最適化だった。殺意より、そのほうが、ずっと恐ろしかった。憎まれるなら、まだ人間扱いだ。だがこれは雑音を消すのと同じだった。
巨大なクレーンのアームが、俺たちの真上で旋回した。吊り下げられた空のコンテナが、こちらへ向かって、ゆっくりと、しかし確実に軌道を変える。
「走れるか、帳外屋」
ガントが、俺の腕を掴んだ。だが遅い。空のコンテナは、もう真上にあった。何トンもの鉄が、落ちる直前の、静かな瞬間。
「ミナト」
声がすぐ横でした。
サエだった。病院の前で待っていたはずの彼女が、いつのまにか、ここにいる。ついてこい、とは言っていない。彼女はいつも、危ない場所にだけ、当たり前のように現れる。
「クレーンは、道路でも記録でもない」
彼女のコートの袖の内側で、細い線が赤く灯った。腕の骨格に沿って走る、血管のような光。彼女がいちばん嫌う、企業に刻まれた戦闘用の赤が、風を呼ぶときだけ目を覚ます。
「でもワイヤーは切れる」
サエが跳んだ。
港湾の夜気が、彼女の周りで裂けた。海から吹き上げる潮の風、コンテナの隙間を抜ける風、クレーンの起こす下降気流。港はビル街より風が多い。鎌鼬にとっては、刃の在庫が無尽蔵にある場所だった。
跳んだ彼女の腕で、赤い駆動線がひときわ強く灯る。その一瞬、白い作業灯の下に、黒いコートの細い影と、腕を走る一筋の赤だけが、はっきりと浮かんだ。
落下してくる空コンテナを吊っていた鋼のワイヤーが、斜めに断ち切られた。金属の断面が、白い作業灯を反射して光る。コンテナは軌道を失い、俺たちのいない方向へ、鈍い音を立てて落ちた。
コンクリートが割れた。俺たちがさっき立っていた場所だ。粉塵が白い光の中で舞った。
だがクレーンは、止まらなかった。一基が外れても、AIには、まだ他のアームがある。次のクレーンが、旋回を始めた。二基目のワイヤーが、新しい鉄を吊り上げる。
「まだ来る」
サエが着地して、低く言った。息が少し上がっている。
「何基ある」
「この区画に、六基」
ガントが、答えた。港の男だ。設備の数は、身体で覚えている。
「全部が俺たちを狙ってるわけじゃねえ。だがAIが"ノイズ"を消したいなら、手は多いほどいい」
二基目が、コンテナを振り下ろした。サエがまた跳ぶ。赤い線が、闇を裂く。ワイヤーが切れ、鉄が逸れる。だが彼女の動きが、さっきより、わずかに重い。風を刃に変えるのは、ただではない。連続で使えば、彼女の身体も、削れる。
「サエ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「大丈夫って言ってる」
三基目が、動き出した。
俺は思考を切り替えた。力業では、勝てない。相手は機械で、こっちは三人。しかも一人は消耗している。これは暴力で解決する場面じゃない。数字で動く相手なら、数字で止めるしかない。
俺はガントに叫んだ。
「この区画の、制御端子はどこだ」
「管理棟の、地下だ! だがAIが握ってる」
「握らせておけばいい。俺が欲しいのは、権限じゃない。記録だ」
俺は走った。震える手で、端末を操作しながら。AIは俺たちを"事故率のノイズ"として消そうとしている。ならばその判断そのものを、記録に残してやればいい。AIが無人クレーンを、割り当て外の時間に、人間へ向けて起動した。その事実が記録されれば、それはもう"事故"では処理できない。"攻撃"になる。企業がいちばん嫌う言葉だ。
俺は地下へは行かなかった。代わりに、管理棟の外部監査ログに、この瞬間の全クレーンの動作記録を、まるごと複製して、外へ飛ばした。狐の中継を使った。金はあとで請求されるだろう。だがこの記録が、港湾の外に一つでも残れば、AIの"最適化"は、証拠になる。
三基目のワイヤーが、俺の頭上で、うなりを上げた。
だがそれは落ちてこなかった。
クレーンが、ぴたりと止まった。四基目も、五基目も。一斉に動きを止めた。
AIは計算し直したのだ。外部にログが飛んだ。この状況を続ければ、"事故率の乱れ"どころか、"攻撃記録"という、はるかに大きな数字の乱れが生じる。ノイズを消すつもりが、もっと大きなノイズを生む。ならば止まるほうが、最適だ。
殺意で動いていないものは、殺意で止まりもしない。ただ損得の計算が、傾いただけだった。
クレーンは、標的を失って、なお数秒、虚空を旋回していた。やがて割り当ての外れた動作を"異常"と判定したのか、ゆっくりと停止した。誰かがそれを命じたわけではない。ただ最適化が、次の最適化に上書きされただけだった。
サエが俺の隣に降りてきた。袖口の赤い線が、消えていく。
「一回だけって、言ったのに」
「三回切らせて悪かった」
「追加料金」
「知ってる」
彼女は少しだけ笑った。疲れた笑いだった。だが笑えるうちは、大丈夫だ。俺はそう思うことにしている。
*
その夜事務所に戻ると、サエは珍しく、すぐには帰らなかった。
風を連続で使ったあとの彼女は、少しだけ、静かになる。ソファに浅く座り、灰色の目を半分閉じて、袖の下の腕を、そっと押さえている。骨格補強された腕は、使いすぎると、内側から熱を持つのだと、前に一度だけ聞いた。
「病院悪かったな」
俺は言った。中に入れなかった彼女に、ではない。入れないことを、当たり前のように受け入れさせてしまう、この街に、だ。
「別に」
サエは目を閉じたまま言った。
「あそこ機械の音が多い。心電図とか、点滴のポンプとか。ああいう規則的な音、駄目なの」
彼女が自分の過去に触れるのは、珍しかった。俺は余計なことを言わないように、灰桜をくわえた。火はつけない。
「実験区画も、そうだった」
サエは続けた。独り言のようだった。
「静かなの。規則的で、清潔で静かなの。悲鳴とか、そういうのは、ない。ただ機械の音だけが、ずっと鳴ってる。──あの静けさが、いちばん、怖い」
俺は間宮の部屋を思い出した。消毒された、物のない、静かな部屋。あそこで、俺の手は震えた。サエが病院に入れないのと、俺があの部屋で震えるのは、たぶん同じ種類のものだった。
「あんたも」
サエが目を開けて、俺を見た。
「あの部屋で、震えてた」
「見てたのか」
「窓から」
彼女は病院の前で、壁にもたれて、四階を見上げていた。あの位置からでは、管理棟は見えない。だがこの女は、見えないものを見る。風のように。
「待機室だっけ」
「よく覚えてるな」
「あんたが、寝言で言うから」
俺は灰桜のフィルターを、少し強く噛んだ。寝言。事務所のソファで、俺が仮眠を取っているとき、この女は、聞いていたのか。
「何て言ってた」
「回収対象、って」
サエはまた目を閉じた。
「あと名前。誰かの名前を、呼んでた。回収対象の、名前だと思う」
俺は答えなかった。答えられなかった。企業にいた頃、俺が何を"回収"していたのか、俺自身まだ全部は思い出せていない。手が覚えているのに、頭がそれを認めたがらない。
「訊かないでおく」
サエが言った。
「あんたも、私の旧名、訊かないでしょ」
「訊かない」
「ならおあいこ」
それきり、俺たちは、しばらく黙っていた。灰桜の青い光と、窓の外の、湾岸のネオンだけが、部屋を照らしていた。
入れない部屋を、それぞれ抱えた二人が、その部屋の話を、しないでいる。それが俺たちの、距離の取り方だった。近すぎず、遠すぎず。互いの傷を、覗きこまない。ただ隣にいる。
「明日もあの会社と、やり合うんでしょ」
サエが立ち上がった。帰る時間だ。
「ああ」
「震えるなら、灰桜切らさないようにね」
「善処する」
「善処って言うやつは、だいたい切らす」
彼女はそう言って、濡れてもいないコートの襟を立て、雨上がりの匂いを残して、出ていった。
俺は一人になった事務所で、灰桜にようやく火をつけた。青白い煙が、天井へ昇っていく。震えは止まっていた。




