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帳の外 ―まだ、ここにいる―  作者: 佐和井 泥
第四話 オークは夜勤を降りない

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28/55

4-4

 港湾のホワイトボードは、夜勤班の詰所(つめしょ)の隅にあった。


 古い樹脂の白板だ。表面は無数の書き込みで薄く汚れ、端は割れている。夜勤班の頭と終わり、ガントが二十年、班全員の安全確認を手書きで残してきた板。企業のシステムには繋がっていない。だから書き換えられない。


 俺は事故当夜の欄を見た。トウゴの確認済みの印があった。時刻も入っている。ガントの、角ばった不器用な字。トウゴがヘルメットに書いた〈トウゴ〉と、同じ筆跡(ひっせき)の癖だった。師匠と弟子は、字の癖まで似る。


 企業ログでは、その同じ時刻、トウゴは"安全確認未実施"になっていた。手書きでは、確認済み。同じ夜、同じ分。記録が真っ二つに割れている。


 二十年書き続けられた板と、一夜で書き換えられるシステム。どちらが嘘をつきやすいかを、俺はもう知っていた。


 俺はボードを写真に撮った。それだけでは足りない。俺は詰所(つめしょ)にいたドゥガと、他の班員にも、証言を取った。事故のあった時刻、トウゴが確認を終えていたこと。割り当てが、突然変わったこと。上段が中段に寄りかかっていたことを、誰も知らされていなかったこと。


 証言は揃っていた。人の記憶と、手書きの板が、同じ夜を、同じように覚えていた。噓をついているのは、システムのほうだった。


「これだ」


 俺が言うと、ガントがホワイトボードの前に立った。巨躯(きょく)が古い白板を見下ろす。


「トウゴの確認は、あった。あんたの字で、残ってる」


「当たり前だ」


 ガントの声が、(かす)れた。


「あいつは、やってた。ちゃんと、やってたんだ」


 彼は太い指で、トウゴの欄の印にそっと触れた。傷だらけの指が、二十年分の板の上で、一度だけ止まった。


 俺は真相の輪郭を、彼に話した。物流AIが、耐久種族補正たいきゅうしゅぞくほせいに従って危険な作業をオーク班へ回していたこと。事故が起きるたび、割り当て変更の記録が改竄(かいざん)され、オーク班の過失に見えるよう処理されていたこと。バルガのときも、その前も、同じだったこと。


 ガントは、長いあいだ、黙って聞いていた。


 そして低く言った。


「頑丈だから死んでもいい、なんて誰も言わねえよ」


 彼はホワイトボードから目を離さない。


「ただ頑丈だから"先に行かせる"。それだけで、順番はいつも俺たちだ」


 拳が板の縁を、みしりと握った。


「危ない仕事は、いつのまにかオークの列に並んでる。誰も命令してねえ。誰も謝らねえ。だから性質が悪い」


 その通りだった。この事件には、憎むべき悪人がいない。間宮(まみや)は数字を承認しただけ。AIは最適化しただけ。誰もトウゴを壊そうとはしていない。


 なのにトウゴの手は、もう動かない。


     *


証拠を揃えたあと、ガントが言った。


「トウゴに、会ってくれるか」


 俺は少し迷った。会って何ができるわけでもない。だがガントの目が、それを頼んでいた。あいつが、まだ"不注意なオーク"じゃないってことを、誰かに見ておいてほしい。そういう目だった。


 病院は怪異(かいい)市民や亜人類(あじんるい)も受け入れる、数少ない総合病院だった。企業病院ではない。だから設備は古い。だが人を種族で選り分けはしない。


 サエは病院の前で足を止めた。


「私はここで待ってる」


「入らないのか」


「病院嫌い」


 彼女の声は、平坦だった。だがその手が、無意識に、左手で右手首を押さえていた。白い壁。消毒の匂い。医療機器の並ぶ廊下。──実験体だった頃を思い出すのだろう。彼女にとって、病院は治す場所ではなかった。作り変えられる場所だった。


 俺はそれ以上、誘わなかった。誰にでも、入れない部屋がある。俺にとっての待機室が、彼女にとっての、これだ。


「すぐ戻る」


「ゆっくりでいい」


 サエは病院の壁にもたれて、空を見上げた。彼女を残して、俺とガントは、中へ入った。


 トウゴの病室は、四階の奥にあった。


 ベッドの上のトウゴは、思っていたより、小さく見えた。現場では、あんなに肩幅が広かったのに。管に繋がれ、身体の大半が、動かない。緑がかった灰色の肌は、あの白い照明の下より、さらに白っぽかった。


 だが目は生きていた。俺たちが入ると、その目が、わずかに動いた。


「ようトウゴ」


 ガントの声が、いつもの半分の大きさになっていた。この巨躯(きょく)の男が、こんなに小さな声を出せるのかと、俺は思った。


「班長が連れてきた。帳外屋(ちょうがいや)だ。お前の事故を、調べてくれた」


 トウゴの目が、俺を見た。何か言おうとして、言葉にならない。口がうまく動かない。


 俺はベッドの脇に立った。何を言えばいいのか、わからなかった。慰めの言葉は、俺の柄じゃない。だから事実だけを言うことにした。


「あなたの記録を、見ました」


 トウゴの目が、俺に集まる。


「事故の夜、あなたは指差呼称(しさこしょう)を、全部やっていた。抜けは一つもなかった。あなたは、班長に教わった通りに、確認していた」


 トウゴの目が、揺れた。


「あなたは、不注意じゃなかった。会社の記録が、噓をついていた。それを俺が証明します。あなたの名前の隣の"不注意"は、消えます」


 トウゴの目から、涙がこぼれた。声は出なかった。ただ涙だけが、白い頬を流れた。動かない身体の中で、心だけが、まだちゃんと、動いていた。


 ガントが、トウゴの手を握った。動かない、若い手を。傷だらけの太い手が、それを包むように握った。


「聞いたか、トウゴ。お前はやってた。俺は知ってた。ちゃんと、知ってたぞ」


 その時病室のドアが、遠慮がちに開いた。


 マルだった。トウゴが庇った、あの新人。彼は俺たちがいるのを見て、入るのをためらった。手に小さな包みを持っている。見舞いの品らしい。


「マル」


 ガントが、静かに呼んだ。


「入れ。トウゴも、待ってる」


 マルはおずおずと、ベッドに近づいた。トウゴの顔を見て、それから、下を向いた。


「トウゴさん……俺のせいで」


 声が震えていた。


「俺があの時ちゃんと逃げてれば。トウゴさんが、俺を庇わなきゃ」


 トウゴの目が、マルを見た。そして必死に口を動かそうとした。言葉は出ない。だがその目は、はっきりと、何かを伝えようとしていた。


 俺にはそれが読めた気がした。たぶんこう言っていた。


 ──お前は、悪くない。


 マルは包みをそっとベッド脇に置いた。中身は小さな手のひらサイズの工具だった。


「トウゴさんが……いつかこれ欲しいって言ってて。給料入ったら、買うって。だから俺が代わりに」


 マルの声が、詰まった。トウゴが、もう二度と、その工具を握れないことを、マルもわかっていた。それでも、買わずには、いられなかったのだ。


 トウゴの目が、その工具を見た。そしてまた笑おうとした。動かない顔で、必死に。


 ガントが、マルの肩に、手を置いた。


「トウゴはな、お前を助けたことを、後悔しちゃいねえ。あいつは、そういうふうに、育った。俺がそう育てた」


 ガントの声が、震えた。この防音壁のような男の声が。


「後悔してるとしたら、それはあいつじゃねえ。あいつを、そんな目に遭わせた、この街のほうだ」


 俺は病室の窓から、外を見た。四階から、病院の前の通りが見える。壁にもたれたサエが、こちらを見上げていた。中には入れない彼女が、それでも、俺たちを、下から見守っていた。


 誰にでも、入れない部屋がある。だが入れなくても、そばにいることはできる。サエはたぶんそれを知っていた。

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