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港湾のホワイトボードは、夜勤班の詰所の隅にあった。
古い樹脂の白板だ。表面は無数の書き込みで薄く汚れ、端は割れている。夜勤班の頭と終わり、ガントが二十年、班全員の安全確認を手書きで残してきた板。企業のシステムには繋がっていない。だから書き換えられない。
俺は事故当夜の欄を見た。トウゴの確認済みの印があった。時刻も入っている。ガントの、角ばった不器用な字。トウゴがヘルメットに書いた〈トウゴ〉と、同じ筆跡の癖だった。師匠と弟子は、字の癖まで似る。
企業ログでは、その同じ時刻、トウゴは"安全確認未実施"になっていた。手書きでは、確認済み。同じ夜、同じ分。記録が真っ二つに割れている。
二十年書き続けられた板と、一夜で書き換えられるシステム。どちらが嘘をつきやすいかを、俺はもう知っていた。
俺はボードを写真に撮った。それだけでは足りない。俺は詰所にいたドゥガと、他の班員にも、証言を取った。事故のあった時刻、トウゴが確認を終えていたこと。割り当てが、突然変わったこと。上段が中段に寄りかかっていたことを、誰も知らされていなかったこと。
証言は揃っていた。人の記憶と、手書きの板が、同じ夜を、同じように覚えていた。噓をついているのは、システムのほうだった。
「これだ」
俺が言うと、ガントがホワイトボードの前に立った。巨躯が古い白板を見下ろす。
「トウゴの確認は、あった。あんたの字で、残ってる」
「当たり前だ」
ガントの声が、掠れた。
「あいつは、やってた。ちゃんと、やってたんだ」
彼は太い指で、トウゴの欄の印にそっと触れた。傷だらけの指が、二十年分の板の上で、一度だけ止まった。
俺は真相の輪郭を、彼に話した。物流AIが、耐久種族補正に従って危険な作業をオーク班へ回していたこと。事故が起きるたび、割り当て変更の記録が改竄され、オーク班の過失に見えるよう処理されていたこと。バルガのときも、その前も、同じだったこと。
ガントは、長いあいだ、黙って聞いていた。
そして低く言った。
「頑丈だから死んでもいい、なんて誰も言わねえよ」
彼はホワイトボードから目を離さない。
「ただ頑丈だから"先に行かせる"。それだけで、順番はいつも俺たちだ」
拳が板の縁を、みしりと握った。
「危ない仕事は、いつのまにかオークの列に並んでる。誰も命令してねえ。誰も謝らねえ。だから性質が悪い」
その通りだった。この事件には、憎むべき悪人がいない。間宮は数字を承認しただけ。AIは最適化しただけ。誰もトウゴを壊そうとはしていない。
なのにトウゴの手は、もう動かない。
*
証拠を揃えたあと、ガントが言った。
「トウゴに、会ってくれるか」
俺は少し迷った。会って何ができるわけでもない。だがガントの目が、それを頼んでいた。あいつが、まだ"不注意なオーク"じゃないってことを、誰かに見ておいてほしい。そういう目だった。
病院は怪異市民や亜人類も受け入れる、数少ない総合病院だった。企業病院ではない。だから設備は古い。だが人を種族で選り分けはしない。
サエは病院の前で足を止めた。
「私はここで待ってる」
「入らないのか」
「病院嫌い」
彼女の声は、平坦だった。だがその手が、無意識に、左手で右手首を押さえていた。白い壁。消毒の匂い。医療機器の並ぶ廊下。──実験体だった頃を思い出すのだろう。彼女にとって、病院は治す場所ではなかった。作り変えられる場所だった。
俺はそれ以上、誘わなかった。誰にでも、入れない部屋がある。俺にとっての待機室が、彼女にとっての、これだ。
「すぐ戻る」
「ゆっくりでいい」
サエは病院の壁にもたれて、空を見上げた。彼女を残して、俺とガントは、中へ入った。
トウゴの病室は、四階の奥にあった。
ベッドの上のトウゴは、思っていたより、小さく見えた。現場では、あんなに肩幅が広かったのに。管に繋がれ、身体の大半が、動かない。緑がかった灰色の肌は、あの白い照明の下より、さらに白っぽかった。
だが目は生きていた。俺たちが入ると、その目が、わずかに動いた。
「ようトウゴ」
ガントの声が、いつもの半分の大きさになっていた。この巨躯の男が、こんなに小さな声を出せるのかと、俺は思った。
「班長が連れてきた。帳外屋だ。お前の事故を、調べてくれた」
トウゴの目が、俺を見た。何か言おうとして、言葉にならない。口がうまく動かない。
俺はベッドの脇に立った。何を言えばいいのか、わからなかった。慰めの言葉は、俺の柄じゃない。だから事実だけを言うことにした。
「あなたの記録を、見ました」
トウゴの目が、俺に集まる。
「事故の夜、あなたは指差呼称を、全部やっていた。抜けは一つもなかった。あなたは、班長に教わった通りに、確認していた」
トウゴの目が、揺れた。
「あなたは、不注意じゃなかった。会社の記録が、噓をついていた。それを俺が証明します。あなたの名前の隣の"不注意"は、消えます」
トウゴの目から、涙がこぼれた。声は出なかった。ただ涙だけが、白い頬を流れた。動かない身体の中で、心だけが、まだちゃんと、動いていた。
ガントが、トウゴの手を握った。動かない、若い手を。傷だらけの太い手が、それを包むように握った。
「聞いたか、トウゴ。お前はやってた。俺は知ってた。ちゃんと、知ってたぞ」
その時病室のドアが、遠慮がちに開いた。
マルだった。トウゴが庇った、あの新人。彼は俺たちがいるのを見て、入るのをためらった。手に小さな包みを持っている。見舞いの品らしい。
「マル」
ガントが、静かに呼んだ。
「入れ。トウゴも、待ってる」
マルはおずおずと、ベッドに近づいた。トウゴの顔を見て、それから、下を向いた。
「トウゴさん……俺のせいで」
声が震えていた。
「俺があの時ちゃんと逃げてれば。トウゴさんが、俺を庇わなきゃ」
トウゴの目が、マルを見た。そして必死に口を動かそうとした。言葉は出ない。だがその目は、はっきりと、何かを伝えようとしていた。
俺にはそれが読めた気がした。たぶんこう言っていた。
──お前は、悪くない。
マルは包みをそっとベッド脇に置いた。中身は小さな手のひらサイズの工具だった。
「トウゴさんが……いつかこれ欲しいって言ってて。給料入ったら、買うって。だから俺が代わりに」
マルの声が、詰まった。トウゴが、もう二度と、その工具を握れないことを、マルもわかっていた。それでも、買わずには、いられなかったのだ。
トウゴの目が、その工具を見た。そしてまた笑おうとした。動かない顔で、必死に。
ガントが、マルの肩に、手を置いた。
「トウゴはな、お前を助けたことを、後悔しちゃいねえ。あいつは、そういうふうに、育った。俺がそう育てた」
ガントの声が、震えた。この防音壁のような男の声が。
「後悔してるとしたら、それはあいつじゃねえ。あいつを、そんな目に遭わせた、この街のほうだ」
俺は病室の窓から、外を見た。四階から、病院の前の通りが見える。壁にもたれたサエが、こちらを見上げていた。中には入れない彼女が、それでも、俺たちを、下から見守っていた。
誰にでも、入れない部屋がある。だが入れなくても、そばにいることはできる。サエはたぶんそれを知っていた。




