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港湾物流の事故ログは、驚くほど綺麗だった。
綺麗すぎた。荷崩れ、無人クレーンの誤作動、フォークリフトの暴走、高所からの転落。どれも整った書式で記録され、原因欄には判で押したように同じ分類が並んでいる。作業員側の安全確認不備。安全意識の低さ。種族特性に起因する衝動的判断。
人が壊れた記録が、事務書類の顔をしていた。
サエがソファから俺の手元を覗き込んだ。珍しく仕事に興味を持っている。
「全部オークのせいになってる」
「そうだ」
「便利ね。壊れた側が悪いことにできる」
彼女の声に、いつもの皮肉とは違う、硬いものが混じっていた。壊れた側が悪いことにされる。それがどういうことか、この女は身体で知っている。実験体だった頃の話は、めったにしない。だが時々こういうところで、滲む。
「バルガの事故を、探してみる」
俺はバルガから聞いた日付と区画を、ログに打ち込んだ。あった。三ヶ月前。高所からの転落。原因オーク特有の体格認識不足。
だが最初はそれ以上、何も出てこなかった。事故の記録は、どれも整いすぎていて、隙がない。
俺は並べ替える軸を変えた。事故の時刻でも、負傷者の名前でもなく、その作業が「いつ割り当てられたか」で並べ直す。企業のシステムは、人間が"事故"の欄を睨むことは想定していても、"割り当てが変わった時刻"まで並べて見るとは、あまり思っていない。
並べ替えた瞬間、画面の中で、数字が揃った。
トウゴの事故。割り当て変更、作業開始の一分前。
バルガの転落。割り当て変更、二分前。
その前の荷崩れ。割り当て変更、一分前。
さらにその前の、フォークリフト暴走。割り当て変更、三分前。
事故が起きた作業は、例外なく、直前に割り当てが差し替えられていた。しかも差し替えの行き先は、いつも同じだった。オークの、夜勤班。
現場で身体で見たものが、数字になって、目の前に並んでいた。危ない仕事が、この列に、そっと寄せられていく。ドゥガの言った通りだ。またうちか。
俺は変更の実行者の欄を開いた。そこにあったのは、人間の名前ではなかった。物流最適化AI。自動調整。
誰も命令していない。誰も手を下していない。数字が事故の直前に、危ない仕事をオークの列へ、そっと寄せていただけだった。
「機械が選り分けてる」
サエが言った。
「頑丈な肉から先に、使うように」
「そうだ」
「最悪」
彼女は短くそう言って、窓の外を見た。その横顔が、いつもより硬かった。
俺は割り当て変更のさらに奥を辿った。承認欄がある。自動処理には、形式上の承認者が要る。そこに人間の名前があった。
間宮。物流会社の安全管理担当。
そしてその承認欄の隅に、見覚えのある白い札があった。
労働系整理/IX-LB。
以前にも見た。座敷童を消そうとした廃棄申請書。河童技師を死人にした抹消処理。地図から消された地下搬送路。住居、記録、道路。片づける対象が違うだけで、同じ白さの札が、今度は"労働"の欄に貼られていた。
IX。またあれだ。
俺はその意味をまだ知らない。だが匂いは覚えている。何かを誰の責任でもない形で、整理するための札の匂いだ。
「これ前にも見たやつでしょ」
サエが画面の白い札を指した。
「ああ」
「増えてる」
「増えてる」
俺たちは、しばらく、その白い札を見ていた。ひとつずつは、ただの事務処理だ。だがこうして並ぶと、都市の下を、同じ手が這っているのが見える。
*
間宮は港湾管理棟の一室で俺を迎えた。
部屋は清潔だった。清潔すぎた。机の上には物がなく、壁のディスプレイには、事故率の推移を示すグラフが穏やかな右肩下がりで表示されている。数字の上では、この港は安全になり続けているらしい。
その清潔さが、俺の首の裏を、ざらりと撫でた。
消毒された空気。物のない机。均一な白い光。──よく似ていた。あの部屋に。企業にいた頃、俺が何度も通された、あの待機室に。
現場帰りに通される、清潔な小部屋。そこで俺は報告書を書き、次の"回収対象"を受け取った。壁はこんなふうに白かった。空気はこんなふうに消毒の匂いがした。上司の声が、こんなふうに、感情を消して響いた。
指が震えた。
俺は反射的に灰桜をくわえた。火はつけない。ここは禁煙だろう。だがくわえているだけで、少しだけ、手が落ち着く。青い認証光を、指先で確かめる。今はここだ。港湾管理棟。あの待機室じゃない。俺はもうあそこにはいない。
「禁煙です」
間宮が穏やかに言った。
「吸いません。くわえてるだけです」
「妙な癖ですね」
「ええ。妙な癖です」
俺は震える指を、ポケットに突っ込んだ。間宮はそれに気づいたようだった。だが何も言わなかった。ただ俺を一つのデータのように、静かに観察していた。
間宮自身も、清潔な男だった。若い。皺ひとつないスーツ。一本の乱れもなく整えた髪。爪は磨かれ、指先だけが作り物のように光っている。襟元の企業連合の社章が、俺が身じろぎするたび、角度を変えて青から桃、桃から緑へと、安っぽく色を変えた。広告ホログラムと同じ、見る角度で表情を変える光だ。
握手のために差し出された手は、乾いて冷たかった。鉄も油も、たぶん一度も触ったことのない手だ。ガントの手とは、あらゆる意味で正反対の手をしていた。
「帳外屋の方が、なぜここへ」
「オーク夜勤班の事故について、調べています」
間宮の表情は、動かなかった。
「あああの件ですか」
彼は手元の端末を軽く操作した。壁のグラフが切り替わる。
「オーク班の事故率は、運用許容範囲内です。数字の上では、何も起きていません」
「一人再起不能になっています。その前にも、一人腕をなくしています」
「個別の事案は、把握しています」
間宮は丁寧に頷いた。
「感情の問題は理解します。ですが私が扱えるのは係数です」
俺は彼の顔を見た。悪意を探した。見つからなかった。それがいちばん厄介だった。悪人なら、まだ話が早い。この男には、憎むべき芯がない。
「危険な作業が、オーク班に集中している。ログにそう出ています」
「ええ」
間宮は否定しなかった。
「耐久種族補正です」
「補正」
「オークは、身体的耐久性が高い。統計的に、同じ作業でも重篤化率が低いんです。ですから、耐久性の高い種族に、負荷の高い作業を割り当てる。合理的な最適化です」
彼はそこで初めて、俺を諭すような目をした。
「耐久種族補正は差別ではありません。むしろ種族特性を正しく評価に織り込んだ、公平な設計です」
公平。その言葉を、彼は本気で使っていた。
「頑丈な方に、頑丈な仕事を。効率的で、合理的で、どこにも悪意はありません」
間宮は両手を机の上で軽く組んだ。
「だからこそ、止める理由もないんです」
「重篤化率が低い、と言いましたね」
俺は言った。
「低いだけで、ゼロじゃない。低い確率の裏で、人が腕をなくしてる。トウゴは、口も利けない」
「ええ。統計に個体差はつきものです」
個体差。バルガの、なくした腕が、個体差だった。トウゴの、動かない手が、個体差だった。
「あなたは、その"個体差"の顔を、見たことがありますか」
間宮は少しだけ、間を置いた。
「……私の仕事は、顔を見ることではありません」
「では誰の仕事ですか」
俺は食い下がった。
「この耐久種族補正を、決めたのは、あなたじゃない。あなたは、承認しただけだ。じゃあ誰がオークは頑丈だから先に行かせろ、と決めたんです」
間宮の指が、一瞬止まった。
「……補正値は、標準ライブラリから、提供されています」
「標準ライブラリ」
「業界標準の、リスク係数の集合です。どの企業も、それを使っています。私が作ったものではありません。もっと言えば、うちの会社が作ったものでも、ありません」
「じゃあ誰が作ったんです」
間宮は答えなかった。答えられなかったのだと、俺は思う。彼は標準ライブラリを、使っていた。そのライブラリを、誰がどんな思想で作ったのか、考えたことすら、なかったのだ。
「あなたは」
俺は静かに言った。
「自分が何を使ってるのかも、知らずに、人を列に並べてるんですね」
間宮の表情が、初めて揺れた。ほんのわずかに。だがそれは罪悪感ではなかった。もっと足元が崩れるような、不安に近かった。自分が確かだと思っていた地面が、実は誰かの敷いた薄い板だったと、気づいた顔だった。
だが彼はすぐにその表情を、しまい込んだ。
「……私は標準に従っています。標準に従うことは、間違いではありません」
その一言が、この男のすべてだった。
*
間宮は補正は標準ライブラリから来ている、誰が作ったかは知らない、と言った。ならばその出所に近いところにいる男に、心当たりがあった。
俺はあの白い札のことを、狐に訊いてみることにした。
旧市街の地下喫茶《尻尾》は、昼でも夜のようだった。狐はいつものように、頼んでいない濃い茶を出してきた。金の指輪が、ポットを傾けるたび、ちゃらりと鳴る。
「IX-LB。労働のL・B」
狐は俺のメモを覗き込んで、金色の縦瞳を細めた。
「へえ。労働まで来たか」
「知ってるのか」
「札の意味は知らない。だがその頭のIXって記号なら、最近いろんなところで聞くよ」
狐は茶をひとくち、自分でも啜った。
「廃屋の取り壊し。古いサーバの停止命令。地下道の封鎖。──で今度は労働災害の処理か。バラバラの事件だ。頼んでる企業も、バラバラ。なのに末尾に貼られる札だけが、同じ書式」
「同じ手が、やってる」
「いや」
狐は指を一本、立てた。
「手はバラバラだ。やってる企業は、それぞれ違う。ただ"やり方"だけが、どこかから配られてる。整理の標準手順。──誰かが、都市中の"片づけ方"を、一つの書式に、揃えてるのさ」
俺は間宮の言葉を思い出した。標準に従っているだけだ、と彼は言った。その標準と、狐の言う整理の標準手順は、たぶん地続きだった。
「その"誰か"は」
「さあね」
狐は金色の目で、意味ありげに笑った。
「そこから先は、俺の商売の範囲外だ。ただ一つだけ言えるのは──その"誰か"は、たぶん悪党じゃない。悪党なら、こんなに、書式を綺麗に揃えたりしない」
狐は茶をもう一口飲んだ。
「綺麗な書式ってのは、な。良かれと思ってる奴が作るんだよ。いちばん、始末に負えないやつだ」
俺は茶代を置いて、店を出た。良かれと思っている奴。悪意なく、都市の片づけ方を揃えていく手。間宮のあの穏やかな顔が、また浮かんだ。あれはその手の、末端の一本にすぎない。




