4-2
ガントが眉を寄せた。
「見学か」
「現場を見ないと、ログの噓は見抜けない。数字がどこで曲がってるか、身体で知っておきたい」
ガントは、俺の細い身体を、上から下まで見た。港湾夜勤に耐えられる身体には、どう見ても見えなかっただろう。それでも、彼は頷いた。
「臨時の補助員なら、通せる。ただし俺の指示にゃ従え。港は素人が一番よく死ぬ」
「従います」
俺は灰桜をくわえたまま、火をつけなかった。青い認証光だけが、机の端で小さく灯った。ガントが出ていったあと、サエがぽつりと言った。
「震えてる」
「切らしただけだ」
「そう」
彼女はそれ以上訊かなかった。訊かないのが、この女の優しさの形だった。
*
港湾第四埠頭の夜は、昼より忙しかった。
昼間の作業を、無人システムと夜勤班が引き継ぐ。人の目が減るぶん、機械が増える。無人コンテナ車、自動クレーン、搬送ドローン。そのあいだを、ヘルメットをかぶった作業員たちが、縫うように歩いている。オークが多い。エルフやヒューマンもいるが、夜勤の重量物区画は、ほとんどがオークだった。
俺はガントに借りた大きすぎる作業着を着て、班の隅に立っていた。臨時の補助員。実際には、何もできない。ただ見ていた。
「そこ動くな」
ガントの声が飛ぶ。俺の頭上を、クレーンのアームが通り過ぎた。吊られた鉄の箱の影が、俺を一瞬、闇に沈めた。
俺は動けなかった。頭上を何トンもの鉄が、音もなく滑っていく。あと一歩、俺が前に出ていたら、あの影は、俺の上に落ちていたかもしれない。無人クレーンは、人がそこにいるかどうかを、見ていない。決められた軌道を、決められた速度で、正確になぞるだけだ。
鉄の箱が通り過ぎると、ガントが、俺の襟首を掴んで、後ろへ引いた。
「言ったろ。港は素人が一番よく死ぬ。二秒だ。二秒で人は挽き肉になる」
俺の背に、冷たい汗が伝った。震えがまた指先に戻ってきていた。だが今度は灰桜のせいじゃない。ただの恐怖だった。
「港はな」
ガントが、俺の隣に来て言った。
「二秒ぼんやりしたら、二度と喋れなくなる。トウゴみたいに」
俺はその名前が、この現場のあちこちに残っているのを感じた。トウゴがいた持ち場。トウゴが押していたボタン。トウゴが直したという、少し曲がった手すり。人が一人消えても、現場は回る。だが消えた形だけは、しばらく残る。
班にはいろんなオークがいた。
ドゥガという名の、ガントより年上の古参がいた。片耳が潰れている。若い頃まだ安全基準が甘かった時代に、機械に挟まれた跡だという。彼は無口で、しかし手が速かった。俺のような素人にも、危ないときだけ、短く「下がれ」と言った。
マルという、まだ十代の新人もいた。トウゴが庇った子だ。彼は事故のあと、ずっと様子がおかしいと、ガントは言った。自分のせいでトウゴが動けなくなったと思い込んでいる。作業中時々手が止まる。そのたびに、ドゥガが黙って肩を叩く。
「マル」
ガントが呼ぶと、マルはびくりと肩を震わせた。
「確認声に出せ」
「……上段ロック確認」
声が掠れていた。
「もっとでかく。お前の声は、お前を守る呪文だ」
「上段ロック確認!」
マルの声が、夜の港に響いた。ドゥガが、ふんと鼻を鳴らした。悪くない、という意味らしい。
俺はその光景を見ていた。ガントの班は、家族のようだった。血は繋がっていない。種族すら、完全には同じでない。だが互いの命を、互いの声で守り合っている。それを会社は「衝動的で、安全意識の低い集団」と記録している。
午前二時を回った頃、それは起きた。
ヘルメットの通信に、合成音声が流れた。作業割り当ての変更。第七区画の高所作業を、この班へ。理由の説明は、ない。
ドゥガの手が、止まった。
「またうちか」
彼が低く呟いた。
「班長。最近危ねえ仕事が、みんなうちに来る」
ガントは、答えなかった。ただ顎の欠けた牙を、ぎりと鳴らした。
高所作業は、危険度が高い。落ちれば、頑丈なオークでも無事では済まない。それがなぜか事故続きのこの班に回されてくる。人手が足りない他の班ではなく、わざわざ、ここへ。
俺はその瞬間を、目で見た。ログを読む前に、身体で知った。危ない仕事が、この列に、そっと寄せられていく。誰の声もなく。誰の悪意もなく。ただ通信が一度鳴るだけで。
ガントが、俺を見た。俺が何を考えているか、わかったらしい。
「見えたか」
「見えました」
「これが毎晩だ」
その夜俺は何もできなかった。ただガントの班が、危険な高所作業を、いつもの丁寧さで、無事にこなすのを見ていた。事故は起きなかった。起きなかったことが、逆にこの班の練度を証明していた。
これだけの腕を持つ班が、それでも半年で何人も欠けた。腕のせいではない。順番のせいだ。
午前四時、休憩に入った。
夜勤の休憩室は、狭くて暖かかった。ガントの班が、古い長机を囲んで、めいめいの弁当を広げている。ドゥガは、驚くほど小さなおにぎりを、大きな手で器用に食べていた。マルはまだ緊張が抜けないのか、箸を持つ手が硬い。
ガントが、俺の隣に、大きな身体を下ろした。缶の合成コーヒーを、俺に一つ寄越す。
「あんたなんで削ったんです」
俺は彼の欠けた牙を指して訊いた。仕事の邪魔になるから、と誰かが言っていた。だがそれだけではない気がした。
ガントは、コーヒーを一口飲んで、答えた。
「若い頃な。俺も事故った」
彼は自分の胸のあたりを、太い指で叩いた。
「クレーンのワイヤーが切れた。俺は下敷きになりかけた。とっさに、こいつで、落ちてくる鉄を、噛んで逸らした」
「牙で」
「馬鹿だろ。オークだからって、鉄は噛めねえ。牙は折れた。肋骨も何本かいった。だが死ななかった」
ガントは、コーヒーの缶を、ぐしゃりと潰した。
「そのとき、会社がなんて書いたと思う。"オーク特有の、過信による無謀行動"だ。俺が自分の頑丈さを過信して、無茶をしたってよ。──助かるために、必死だっただけなのにな」
俺は何も言わなかった。
「あのとき、俺を庇ってくれた班長がいた。もう死んじまったけどな。その人が言ったんだ。荒瀬お前が悪いんじゃねえ。お前を"無謀"にした、この港が悪いんだ、って」
ガントは、削って丸めた牙の跡を、舌で無意識に触った。
「だから俺は削った。もう二度と、こいつで鉄を噛まなくて済むように。──こいつで誰かを守れるような港に、してやりたかった。まあうまくいってねえけどな」
ドゥガが、長机の向こうから、ぼそりと言った。
「班長はよくやってる」
短い言葉だった。だが二十年この男と組んできたドゥガが言うと、重かった。
俺はこの班が、なぜこんなに固いのか、少しわかった気がした。ガントは、自分が"無謀なオーク"にされた男だった。だから若いのを、絶対にそうはさせたくない。トウゴの名前の隣の一文字に、あれほどこだわる理由が、そこにあった。
休憩が終わり、班が持ち場へ戻っていく。俺はその背中を見送りながら、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。
*
現場を見たあと、俺は過去を辿ることにした。
トウゴが最初ではない。ガントの班は、半年で四人が欠けていた。そのうち二人は、まだ話せる状態だと、ガントが教えてくれた。一人は会いたがらなかった。もう一人が、会ってくれた。
名前はバルガ。元・オーク夜勤作業員。今は湾岸の外れの、安い集合住宅に住んでいた。
ドアを開けたバルガは、右腕がなかった。肩から先が、古い義肢に替わっている。安物の旧式の義肢だ。関節の動きが悪く、指も三本しかない。労災でまともな義肢の費用は下りなかったのだろう。
「帳外屋ねえ」
バルガは、俺を部屋に入れると、椅子も勧めずに言った。狭い部屋だった。物が少ない。片腕で暮らすというのは、そういうことなのかもしれない。
「ガントの紹介だ。あんたのこと、いい作業員だったと言ってた」
「昔の話だ」
バルガは、義肢の肩を、左手で撫でた。
「聞きたいんだろ。俺がどうやって腕をなくしたか」
「割り当てが、変更されませんでしたか。事故の直前に」
バルガの目が、止まった。左手が義肢の上で握られる。
「……あんたそれを知ってるのか」
「知りません。だからあなたに訊きに来ました」
バルガは、しばらく黙っていた。それから、窓の外の、灰色の空を見た。
「変更された。俺の事故のときも」
彼の声は、静かだった。怒りはとっくに擦り切れていた。
「高所の作業だった。うちの班じゃない、別の班の仕事だった。それが急に俺たちに回ってきた。理由はなかった。いつものことだ。俺は従った。従うのが、仕事だからな」
「それで」
「足場が俺の体重に耐えなかった。オークは、重い。その足場は、ヒューマン用の規格だった。誰も俺の体重を計算に入れてなかった。いや……」
バルガは、そこで言葉を切った。
「入れてなかったんじゃない。入れてそのうえで、行かせたんだ。頑丈だから、多少のことなら耐えるだろうって」
俺は何も言えなかった。
「会社はな」
バルガは、義肢の指を、ぎこちなく動かした。
「"オーク特有の、自分の体格への認識不足"って書いた。俺が自分の重さを、わかってなかったってよ。三十年この身体で生きてきた俺が」
彼は笑った。笑いに湿ったものが混じっていた。
「俺も大丈夫だと思ってたんだ。頑丈だからな。ガントの口癖と、同じさ。大丈夫だと思った奴から、順番にこうなる」
俺はバルガから、事故の日付を聞いた。区画の番号を聞いた。割り当てが変更された、おおよその時刻を聞いた。彼は全部覚えていた。腕をなくした夜のことを、忘れられるはずがなかった。
帰り際バルガが言った。
ドアの脇に、古い作業手帳が、積んであった。俺はその背表紙を見た。日付が几帳面に書かれている。
「あれは」
「昔の作業記録だ」
バルガは、義肢の肩をすくめた。
「俺もつけてたんだよ。ガントほど、まめじゃなかったがな。事故の日の分も、ある。誰も見に来なかったがな」
俺は頼んでその手帳を見せてもらった。バルガの、左手で書いた、歪んだ字。事故の日の欄に、確かに割り当て変更の時刻が、メモされていた。本人がおかしいと思って、書き留めていたのだ。
「あんたこれおかしいと思ってたんですね。事故の前から」
「思ってた。だが証明できねえ。俺みたいなのが、会社にシステムがおかしいって言ったって、"また不満分子のオークが騒いでる"で終わりだ」
バルガは、義肢の指で、手帳をぎこちなく撫でた。
「あんたが、初めてだよ。この手帳を、意味があるって顔で見た奴は」
俺はその手帳の、事故の日のページを、写させてもらった。バルガの記録と、ガントの記録。二つの手書きが、同じ"割り当て変更"を、別々の場所から、証言していた。手書きは、書き換えるのに手間がかかる。二人分なら、なおさらだ。
「他にもいますか」
俺は訊いた。
「記録をつけてた人が」
「さあな。だがオークってのは、疑り深いんだ。信用されねえ側は、自分で証拠を残すようになる。──たぶん、探せばまだ出てくるぞ」
それは貴重な情報だった。この街で、いちばん記録を軽んじられてきた者たちが、いちばん、自分の手で記録を残していた。信用されないから、自衛する。その哀しい習慣が、皮肉にも、企業の噓を崩す鍵になる。
「なあ帳外屋」
「はい」
「トウゴってガキは、まだ若いんだろ」
「二十歳です」
バルガは、義肢の肩を、また撫でた。
「……そうか」
それだけだった。だがその一言に、この街が何を人から奪ってきたかが、全部詰まっていた。
俺は事務所に帰る道で、灰桜に火をつけた。青白い煙を、灰色の空へ吐いた。震えは止まっていた。今日は煙草のせいだけではない気がした。怒りは時々震えより強い。




