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事務所へ戻る頃には、空が白み始めていた。
地下の湿った匂いが、まだ服に染みついている。油と、焦げたゴムと、霊素の甘さ。地上の朝の空気を吸っても、その匂いはなかなか抜けなかった。一度あの道を通った者に、道の匂いは、しばらく残る。
端末には、サエからのメッセージが入っていた。
――生きてる?
俺は返信した。
――道路に飲まれかけた。
少しして返事が来た。
――呼べばよかったのに。
俺は、返信を打とうとして、指を止めた。呼ばなかった理由を正直に打てば、心配をかける。適当にごまかせば、たぶん見抜かれる。サエは、俺の嘘の、単語の端が削れるのを聞き分ける。
俺は考えてから打った。
――道路を切られても困る。
返事は早かった。
――切らない。たぶん。
たぶん、が一番信用できない。
だが、たぶん、と付ける正直さは、たぶん、一番信用できる。サエは、約束をしない。俺と同じだ。約束の代わりに、たぶん、を置いていく。守れなかったときに、自分を嫌わずに済むように。俺は、その「たぶん」を、しばらく画面に残したまま、消さずにいた。
俺は端末を机に置き、灰桜をくわえた。火をつける前に、もう一通メッセージが届いた。差出人は不明。件名もない。本文は二行だけだった。
――地図にない道を通ったな。
――そこは、お前を運んだ道でもある。
俺はしばらく画面を見ていた。お前を運んだ道でもある、という二行目が、喉に引っかかった。荷を運ぶように、俺も、あの地下のどれかの道を、運ばれたことがあるのか。死亡扱い個体移送。地下の壊れた端末が吐いた四文字が、また目の裏で光った。
古椿ではない。コマリでもない。企業か、怪異か、あるいはその両方か。
脳裏に、地下結節点の壊れた端末が浮かぶ。死亡扱い個体移送。灰桜。待機。
ろくでもない。
そう思いながら、俺は灰桜に火を入れた。青白い煙が、朝の事務所に薄く広がる。
この街では、記録にない者が生きている。地図にない道が残っている。家から出られない座敷童がいて、消された記録を覚えている古椿がいて、道路だけを信じるエルフのドローン使いがいる。
都市は企業のものではない。人間だけのものでもない。ただ、みんな勝手にそう思い込んでいる。
地下では今も、途切れがちの緑の矢印が灯っている。痩せた腕が、大きすぎる標識を抱えている。炎の車輪が、地図にない道を転がっている。地上のどの帳簿にも載らない灯りが、コンクリートの底で、まだ消えずにいる。
窓の外では、朝一番の配送車列が高架道路を走っていた。どの車も、地図にある道を通っている。少なくとも、今は。
俺は煙を吐いた。
道路は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも地図を書く奴だ。
そしてこの街には、地図を書き換えたい奴が多すぎる。




