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午前二時前。御堂のバンは、港湾第三ゲート手前のサービス路に停まっていた。
車内は古かったが、狭い操縦席の周囲だけが異様に密度を持っていた。前面には道路管制、車両診断、ドローン映像、気象情報、違法に拾っているらしい交通ログが並び、手動ハンドルの横には、今ではほとんど見ない物理スイッチが残っている。
「自動運転じゃないんですね」
「自動だ」
「でもハンドルを握ってる」
「癖を見るためだ」
「車の?」
「道路の」
道路に癖がある、という言い方を、俺は初めて聞いた。だが、御堂の指がハンドルの上でわずかに動くのを見て、なんとなくわかった。彼は、路面の継ぎ目のわずかな段差、いつも水の溜まる窪み、夜に霜の降りやすい日陰を、一本ずつ体で覚えている。道は、通る者の癖ではなく、道自身の癖を持っている。それを読める者だけが、道の異変に先に気づく。
御堂はそう言って、エンジンをかけた。低い振動が床から座席へ伝わる。古いバンは、咳き込むのではなく、喉の奥で唸るように目を覚ました。
待つあいだ、御堂はほとんど喋らなかった。
フロントガラスの外では、港湾区が眠らずに働いていた。クレーンの赤い灯が、規則正しく点いては消える。無人トラックの列が、決められた車間を保って高架を流れる。夜勤明けの労働者が、ガード下の自販機で合成珈琲を買い、湯気の立つ紙コップを手に、また別のゲートへ吸い込まれていく。人も、荷も、光も、すべてが誰かの決めた番号の上を、静かに滑っていた。
美しいほど、無駄がない。無駄がないということは、はみ出す隙間もない、ということだ。この整った流れから一度こぼれた者が、どこへ落ちるのか。俺は、まだそれを知らなかった。
やがて標的の車列が、港湾ゲートから現れた。十二台の無人コンテナトラック。先頭から十一台までは冷却コンテナ。最後尾だけが混載便で、道路センサーや補修資材を積んでいる。依頼書によれば、今夜消えると予測されているのはその最後尾だ。
「一号、目」
御堂が言った。後部から小さな駆動音がして、一号が夜空へ上がった。高架道路の上を滑るように進み、車列を斜め上から捉える。
「二号、声」
二号が高架下へ潜り込む。細いアンテナが開き、死んだ保守回線や違法中継波を拾っていく。
「三号、耳塞ぎ。待機」
黒い三号がバンの上で低く旋回した。
「四号、手。待機」
四号の作業アームが、小さく開いて閉じる。
「五号、灯り。待機」
五号のセンサーが、暗い車内で白く瞬いた。
六号だけは動かない。
五機が持ち場に散ると、狭い操縦席の空気が、ふっと薄くなった。御堂の呼吸が、深く、長くなる。彼の意識が、この車の中から抜けて、五つの機体へ分かれていくのがわかった。指先が、ハンドルの上でわずかに開く。目の焦点が、フロントガラスの二メートル先ではなく、二キロ先の道路の継ぎ目に合っている。
俺は、その横で、自分の呼吸だけが車内に残っているような気分になった。相棒がいれば、こういうときは軽口を叩く。だが、御堂は今、ここにいて、ここにいない。俺は、灰桜をくわえ、火はつけず、口の中で霧が生まれるのを待った。
御堂はほとんど手を動かしていない。だが、モニターの中では映像が増えていく。上空、高架下、車列の後尾、港湾ゲート、道路脇の熱分布、監視カメラの死角。複数の視点が、ひとつの道路を重ねて描き出していた。
御堂の横顔を、俺は盗み見た。焦点が、フロントガラスのずっと奥――たぶん、この車のどこでもない場所――に合っている。大きく開いた瞳孔に、六つのモニターの光が小さく映り込んでいた。青白い、道路の色だ。彼はいま、自分の目で前を見ていない。六機の目で、道路そのものを見ている。
この男は、運転しているのではない。道路全体に神経を伸ばしている。
左手が、ハンドルの上で時々、意味もなく指を開いて閉じた。四号の作業アームと同じ動きだった。長く機械へ神経を預けていると、どこまでが自分の手で、どこからが機体なのか、境目が薄れていくのかもしれない。御堂は、その手を一度だけ見て、それから、また前へ――道路の奥へ、意識を戻した。
「何台見てるんです」
「必要なだけ」
「疲れませんか」
「慣れだ」
慣れだ、と言うわりに、御堂のこめかみには、細い汗が浮いていた。六機ぶんの視界を同時に処理するのは、慣れで済むことではないはずだ。だが、彼はそれを疲労とは呼ばない。呼べば、やめる理由になる。道を見張る者が見張りをやめれば、道はまた、こっそり消される。
「五十八年分の?」
「そのうち二十年は、企業の退屈な車列を眺めていた」
「飽きそうですね」
「道は飽きない」
御堂は前を見たまま言った。
「飽きるのは、荷主だ」
午前二時十七分。車列が第十三ジャンクションへ入る。
前を行くのは十二台の無人コンテナ車、少し後ろに御堂の古い配送バン。左には防音壁がそびえ、右では港湾クレーンの赤い灯が点り、頭上を配送ドローンの航行灯が流れていく。
そして、どの地図にも載っていない何かが、道路の下で息をしている。
道路脇の広告ホログラムが、無人トラックの白い側面を一台ずつ照らしていく。どの車両も正確に同じ速度で、同じ車間を保っていた。美しいほど無駄がない。企業が好きそうな光景だ。
だが、御堂の眉がわずかに動いた。
「見ろ」
「何を」
「道路」
俺はフロントガラスの向こうを見た。高架道路。防音壁。街灯。海側に並ぶ港湾クレーン。どこにも異常は見えない。
「普通に見えます」
「だから嘘だ」
御堂は一号の映像を拡大し、熱分布を重ねた。最後尾のトラックの少し先。アスファルトの温度が、一本の線のようにずれている。補修跡でも、継ぎ目でもない。道路の下から、別の道路が息をしているような熱の歪みだった。
「道が一本増えてる」
「道路が増えるんですか」
「地図ではな」
「現実には?」
「昔からあった」
最後尾のトラックが街灯の影に入った。防音壁の内側が、ほんの一瞬だけ開いたように見えた。光が曲がり、黒い口が現れる。コンテナトラックは何の抵抗もなく、その口へ吸い込まれていった。
悲鳴も、急ブレーキも、火花もない。荷を積んだ十数トンの車体が、水面に沈む小石ほどの静けさで消えた。監視カメラは、そこに何もなかったという顔をしている。都市の目は、見えなくなったものを、最初からいなかったことにするのが得意だ。
俺の背筋を、冷たいものが撫でた。消え方が、丁寧すぎる。乱暴に奪われたのではない。きれいに、道の側から回収された。
GPS信号が消える。監視映像からも、車体が消える。
御堂は迷わずハンドルを切った。
「掴まれ」
「どこへ」
「増えた道」
防音壁が迫った。衝突する、と思った瞬間、壁の向こうに下り坂が現れた。暗いコンクリートの口。古い反射板。黄ばんだ警告灯。地図にない地下搬送路。
バンは、夜の高架道路からそのまま闇の中へ突っ込んだ。
重力が、一瞬、消えたように感じた。上下がわからなくなる。ヘッドライトが照らすのは、剥き出しのコンクリートと、黄ばんだ反射板の列だけだ。それが、下り坂の内側で、螺旋を描くように流れていく。耳の奥が詰まった。高架の風の音が、ふつりと消え、代わりに、閉じた管の中を進むような、こもった反響が包んでくる。
外の都市の音が、一切、届かなくなった。ここはもう、地図の上にはない場所だった。




